誕生 - 実業団野球時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:36 UTC 版)
在日韓国人2世として京都で生まれる。本籍地は慶尚南道晋陽郡で、桂高校3年次の1959年に第4回在日僑胞学生野球団の一員として初訪韓し、卒業後の1960年に韓国へ渡り、在日成人球団訪問試合をしてから東亜大学校にスカウトされたが、中退して実業団野球に専念。1961年に本格派左腕として実業団チームの大韓民国交通部へ入団。飛躍の決定的な土台作りになったのはテスト生として参加した同年の南海ホークスが行ったキャンプで、鶴岡一人監督以下、黄金期の南海選手たちや、松葉徳三郎からトレーニング法を学んだ。同年の第4回アジア野球選手権大会で韓国代表に初選出され、準優勝に導いた。1963年11月13日の大統領杯秋季リーグの仁川市庁戦では、四球1つだけ許すノーヒットノーランを達成。1964年の実業野球連盟戦では20勝5敗を挙げるなど信じられないほどの活躍を見せたが、過度の投げ過ぎに肩の負傷を受け、1969年に現役を引退。 引退後すぐに馬山商業高校監督(1969年)を務め、本格的に指導者の道に入る。中小企業銀行投手コーチ(1970年)→監督(1971年 - 1975年)、沖岩高校監督(1976年 - 1979年)、新日高校監督(1979年 - 1981年)を務めた。1975年には第11回アジア選手権で韓国代表コーチを務め、優勝に貢献して体育勲章麒麟章を受ける。沖岩高校監督時代の1977年には創立9年ぶりに全国大会優勝に導いた。大いに手腕を発揮したものの、当初は在日ということで母国・韓国でも反応が冷たかったという。
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