記者生活の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:10 UTC 版)
東京府の官吏、保険会社、出版社、下野新聞の主筆などを転々としたのち、1903年(明治36年)、大阪毎日新聞に学芸部員として入社するが満足な執筆の場を与えられず退社、1907年(明治40年)には大阪朝日新聞に転籍して、大朝通信部詰めという立場で東京朝日新聞社内で勤務、「べらんめえ」と題した匿名時事批評が評判となる。 1910年(明治43年)には信濃毎日新聞の主筆に就任した。1912年(大正元年)、明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将をすぐさま批判した社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」を著し、反響を呼ぶ。1914年(大正3年)には、シーメンス事件に関して政友会を攻撃、信濃毎日新聞社長・小坂順造は政友会所属の衆議院議員であったため対立、退社を余儀なくされる。 同年には新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、社説およびコラム「緩急車」で信毎時代と変わらぬ反権力・反政友会的言説を繰り広げるも、新愛知はこれまた政友会系新聞であったことと、同紙と憲政会系・名古屋新聞との激しい販売競争(皮肉にも両紙は太平洋戦争中の新聞統合で中日新聞を形成する)に疲れたこともあり退社する。1924年(大正13年)には第15回衆議院議員選挙に無所属で出馬するも落選、落選後は自ら日刊新聞を発行するも1年持たず廃刊負債だけが残り浪人生活を数年送る。 1928年(昭和3年)に、当時の信濃毎日新聞主筆・風見章が 衆議院議員選挙(第一回普選)に出馬すべく退社したため、悠々は同紙に主筆として復帰、再び反軍的な一連の社説を著す。もっとも悠々のこの時代の基本的な立場は、マルクシズム批判であり、これは前任者風見のもとで先鋭左傾化した信濃毎日の社内にも、昭和恐慌で疲弊しつつあった長野県の読者層にも好意的に受け止められてはいなかった。
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