記紀の神器考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 18:37 UTC 版)
上記のように、『日本書紀』は歴代天皇の即位時の記述において奉献の品を記すのに、「璽符」(允恭紀)・「璽」(清寧紀、顕宗紀)・「璽印」(推古紀、舒明紀)・「璽綬」(孝徳紀)という、種類を特定できない表現のみを用いることが多い。持統紀より前の時代で具体的に種類を記しているのは継体紀と宣化紀の2紀のみで、それは「鏡」と「剣」である。かつてはこれを論拠として、「元々の神器は鏡と剣の2つで、のちに中臣氏が三種説を主張して勾玉が加わった」のではないかという説もあった。しかし現在では、4~5世紀の豪族の古墳の副葬品に鏡・剣・玉の3点一組が頻繁にみられるという考古学知見に、海外にも日本の三種の神器に類似した品々からなる3点一組を王位のレガリアとする神話があって世界中に分布しているという比較神話学知見、並びに、「鏡剣」または「剣鏡」と書いて「玉」を略すのは漢文の修辞法上の問題で、実際の品数を意味するものではないという漢文の修辞法上の観点から、もともと3点一組で構成されていたと考えられている。したがって、景行天皇が筑紫に行幸した際、県主が、賢木(さかき)の上枝に白銅鏡(まそかがみ)、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊の玉を掛けて出迎え、他の県主の時も、上枝に八尺瓊の玉、中枝に鏡、下枝に十握剣を掛けて出迎えたとの伝承も、後世の造作ではなく、古い祭祀の形であると認められる。また、近江令までは3種であったのをなぜか飛鳥浄御原令で2種とし、その後また3種に戻されたとする説もある。先の「持統天皇四年正月条」の書き下し文でも示したが、持統紀に見える「神璽劒鏡」は「神璽である剣と鏡」という意味で捉えるのが従来説であるが、「神璽(= 勾玉)・剣・鏡」と解釈する研究者もいる。詳細は「八尺瓊勾玉」項を参照のこと。
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