計画当時の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:56 UTC 版)
明治時代から昭和初期にかけて建設された国鉄の路線は、ほとんどが蒸気運転であった。電化計画は明治時代より模索されており、1919年(大正8年)には主要幹線や勾配区間、水力発電を生かせる箇所などの大規模な電化計画が閣議決定されるなど、大正時代から蒸気機関車の淘汰計画に積極的であった。しかし、関東大震災と昭和恐慌により予算が降りず、戦時下に突入すると電化に当時の陸軍幹部の根強い反対意見があり(変電所が被害を受けると列車が走れなくなる)、当初の構想に反して戦後においても1958年(昭和33年)の全営業キロ約2万 kmに対し、電化されていたのは2,237 kmに過ぎず、非電化区間の動力車は蒸気機関車が4,514両、ディーゼル機関車が118両、ディーゼルカーが1,486両であり、蒸気機関車が非電化区間の主力であった。蒸気機関車の熱効率は約5 %で、1950年代のデータで電気機関車が約30 %、ディーゼル機関車が約20 %とそれらと比較すると著しく低い。そのため運転に際し大量の石炭を消費し、単位走行キロ当たりの燃料費が高い。また走行距離に応じて給炭と給水が必要になるほか、石炭の燃えかすを排出する必要があるため長距離運転には不向きであり、これらにより1日当たりの走行距離も低く設定せざるを得ないため、所要機関車数が多くなる。これらはいずれも鉄道経営にとって大きなマイナス要因となる。下表でもディーゼル機関車の車両単価は蒸気機関車より高いが、燃費や必要車両数を考慮すると経営面ではディーゼル機関車が有利となる。さらに大量の煤煙を発生するため、安全性や快適性において他の動力車に比べて大きく劣っていた。 長大トンネルでは、トンネル内にこもったばい煙を適切に排除しないと酸欠状態になる。例えば、急勾配で出力が必要な篠ノ井線の冠着トンネルでは、特殊な排煙装置が装着されていたが、それでも運転関係者の窒息死事故が発生したことがある。 窒息に至らなくてもばい煙は不快であり、トンネル内では真夏でも窓を閉め切る必要があった。当時の列車には一等車・食堂車などを除いて冷房はなかった。 大量のすすによる汚染の問題。 DD51形ディーゼル機関車とC61形蒸気機関車の燃費と走行距離の比較(電化前の東北本線のデータ)形式DD51形C61形走行km当たりの燃料使用量3.5 17.4 燃料単価(円)13 5.7 燃費(円/km)46 99 1日当たりの走行距離357 284 車両価格(万円)6,300 3,300
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