言語の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:07 UTC 版)
最初、ザメンホフはラテン語の復権が言語問題の解決策になると考えていたが、実際にラテン語を学ぶとその困難さに気づいた。一方で英語を学んだ際、名詞の文法上の性および複雑な格変化ならびに動詞の人称変化を省略できないかと考えた。言語を学習するにはたくさんの単語を覚えなければならないが、街を歩いているとき偶然、ロシア語で書かれた2つの看板を見て、解決策を思いついた。швейцарская(シュヴェイツァールスカヤ、門番所)とкондитерская(コンディテルスカヤ、菓子屋)という2つの看板には、共通して-skaja(スカーヤ、場所)という接尾辞が使われていた。彼はひとつひとつ別々に覚えなければならないと思われていた単語を、接辞を使ってひとつの単語から一連の単語群として作り出せるようにする方法を考えた。基本となる語彙は、多くの言語(ただし、ヨーロッパの言語に限られる)で使われているものを採用した。 1878年、現在のエスペラントのプロトタイプといえる Lingwe uniwersala(リングヴェ・ウニヴェルサーラ)を、ザメンホフはギムナジウムの同級生たちに教えた。その後6年間、まず各民族語の文学作品の翻訳と詩作に取りかかり、新しい言語の欠陥や運用上の扱いにくさをなくすことにした。ザメンホフは後の1895年にロシアのエスペランティスト、ニコライ・ボロフコに宛てた手紙に「私は6年間を言語を完璧にするために費やした。たとえそれが1878年の段階ですでにできあがっていたとしても」と書いている。彼はすでに自らの言語を公表できる準備ができていると考えていたが、ロシア政府の検閲がそれを許さなかった。これにより公表が遅れたが、その間、彼は旧約聖書やシェークスピアの作品などをエスペラントに翻訳し、言語の改良も重ねていった。1887年、ようやく出版された Unua Libro(最初の本)でエスペラントの基礎について紹介した。こうして今日話されているエスペラントが世に出された。
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