製作年次と歌詞の意味について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:51 UTC 版)
「アロハ・オエ」の記事における「製作年次と歌詞の意味について」の解説
この曲の譜面は1895年に発売されミリオンセラーとなったが、製作された時期に関しては1883年にサンフランシスコで初演されたという説と、ハワイ王国が白人勢力の圧力により崩壊する前後に作られたとする2つの説が存在する。また、リリウオカラニが獄中でハワイ王国との別れを惜しんで1890年代に作った、という俗説もあるがこれは疑わしいとされる。少なくとも、リリウオカラニによる1877年付の自筆メモによって女王作であることは裏付けられている。 世界大百科事典(平凡社)では「ハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王自身の作詞」「リリウオカラニ女王が(女王就任前、王女時代の)1878年に作った」「アロハ・オエによりハワイアンの古典様式が完成し(中略)1930年代ハワイ音楽ポピュラー化が進行した」と断定されている。 ハワイ州立公文書館は、アロハオエの楽譜と歌詞が収録されたリリウオカラニ本人所有だった「A Book of Hawaiian Songs」という名の歌集原本を保管している。同州会計・総合サービス部がその歌集の電子版を公表しており、歌詞自体はタイプされたものだが、手書きによる推敲の跡や注釈が見られる他、多くの曲に署名と制作年がやはり手書きで添えられている。アロハオエについてはリリウオカラニの愛称リリウという署名と直筆で「マウナヴィリ、1877」と書き添えられている。 また、アロハ・オエのメロディーは後に、イエス・キリストの再臨による平和の回復を待望するという内容の歌詞が新たに付けられ、讃美歌としても使用されている。 歌詞については、作詞者である女王は単なる恋歌として考えていたにも関わらず、葬儀の場で別離の歌として用いられた事実そのものに女王自身が驚いたというエピソードが伝わる。
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