衰退期・閉鎖へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 04:28 UTC 版)
「東京ヴィデオ・ホール」の記事における「衰退期・閉鎖へ」の解説
1957年(昭和32年)に同じ有楽町1丁目によみうりホールが開設され、日本テレビ系列の公開放送番組に使用され始めた。その頃には各放送局とも自前のスタジオを確保していき、放送用に特化しない一般のホールも多数建設された。 AM放送の民間放送ラジオの番組は、この頃から聴取者の嗜好を分析してターゲットを絞った製作方針を取り始め、番組編成も朝・午前・昼・午後・夕方・夜と時間帯別に区切られ、1965年(昭和40年)頃には生放送のワイド番組中心にシフトしていった。公開放送は街中の店舗やイベント会場などにレポーターが出向いて行くスタイルに変化していき、観客をホールに呼び寄せる従来型の公開放送番組はAMラジオから減少していった。 テレビの公開放送番組は盛況であったが、元来が古い雑居ビルである蚕糸会館には機材搬入出用エレベーターが存在せず、正面入り口から狭いエントランス経由で乗用エレベーターを使用して6階まで機材を搬入出しなければならず、決して使い勝手が良いとは言い難かった東京ヴィデオ・ホールに集中していた公開放送番組の中継や収録、および各種イベントは、より使い勝手の良い他の会場に分散されていった。 運営主体は1968年(昭和43年)2月に共同テレビジョンに変わり、以降は同じフジサンケイグループのフジテレビや文化放送、ニッポン放送の公開番組を主体に運用されていた。カラーテレビの中継に対応していなかったため、機器入れ替えの費用対効果を検討した結果、1971年(昭和46年)9月に閉鎖された。ヴィデオ・ホール跡はその後事務所に改装された。 蚕糸会館は老朽化に伴い1983年(昭和58年)に現在のビルに建て替えられている。
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