藤村の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:27 UTC 版)
「藤村義朗 (海軍軍人)」の記事における「藤村の主張」の解説
藤村が太平洋戦争末期に和平工作に携わったことは、戦後の1951年に雑誌『文藝春秋』5月号に藤村自身が発表した「痛恨!ダレス第一電」と題する手記によって広く知られることとなった。この中で藤村は、 1945年4月23日に和平工作を開始することを決め、ハックからダレスの秘書フォン・ゲベルニッツ(藤村は「ゲバーニッツ」と記載)に連絡を取り、先方からは交渉を開始して差し支えないという回答を得た 5月8日に、東京の海軍省に対して、ダレスとの工作についての最初の電報を打った。これに対して海軍省からは「敵による陸海軍離間策ではないか」との回答が来た 驚いてそのような意図はないことを述べて、説得する返電を送った。さらに自らが東京に行って話す方法はないかという電報を送り、一方ダレス側からは、アメリカが責任を持ってスイスまで運ぶので、大臣か大将クラスの代表者を呼べないかという提案を受けた しかし、6月下旬に海軍省から「趣旨はよくわかったから、この件は現地の公使などと連携して善処されたい」という回答が来た。これを見て「東京に人なし」と痛憤した といった内容を記している。 これにより、藤村は「幻の和平工作に携わった人物」として一躍脚光を浴び、その後も和平工作について書いたり話す機会を持った。その中で、当初なかった内容が加わっていった。たとえば、 OSSとの接触は自分自身でもおこない、ダレスとも直接会見した 藤村は実に35本もの電報を打ったが全て外務省に握り潰された 現地の8月14日午後(日本時間8月15日早朝)、つまり玉音放送送出が決まる12時間前、運よく繋がった国際電話で海軍大臣副官が「藤村、あの話(和平の件)、何とかならんかね」と言ってきた。電話を受けた藤村は「ダレスとの交渉の事ですか」と問い返し、傍でこれを聞いたハックは思わず「バカヤロー! 百日遅い! 今頃何を言ってんだ」と怒鳴った といったものである(最後のものは1975年刊行の大森実『戦後秘史』で初めて出た)。 これに沿った内容はテレビ番組で、藤村の没後も取り上げられている。
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