著作集刊行と遺稿発見
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覆面作家として「女性探偵小説家・久山秀子」を演じた期間が長く、男性であることが明かされてからも経歴不明のままだったため、長い間、本名や生没年すらもはっきりしない状態にあった。 中島河太郎は、生年月日を平凡社『現代大衆文学全集』にしたがって1905年(明治38年)5月1日とした上で、本名は当初「片山襄」、のちに「芳村升」に訂正、本職は「横須賀の海軍経理学校に勤めた国語の教官」であったとしていた。細川涼一は、久山の勤務先に関する中島の記述が海軍兵学校(江田島)→海軍機関学校(舞鶴)→海軍経理学校(築地)と変化していることを指摘した上で、三学校の所在地はいずれも横須賀ではないことを指摘している。 生前に刊行された著書は『日本探偵小説全集 16 浜尾四郎・久山秀子集』(改造社、1929年)のみで、これも浜尾四郎との合集であった。その後、長らく著作がまとめられることはなかったが、2004年(平成16年)、初の単著かつ著作集となる『久山秀子探偵小説選』I・IIが、横井司の監修のもと、論創社の論創ミステリ叢書より刊行された。 同書が『読売新聞』2004年11月17日付夕刊で紹介されると、当時、「読売歌壇」の撰者であった清水房雄が、同紙に対して、久山(芳村)が土浦海軍航空隊での同僚だったことを申し出た。さらに、そのエピソードが同紙2005年1月11日付夕刊で紹介されると、それを読んだラ・サール高校の元生徒から読売新聞社文化部へ連絡があり、天理教南国分教会に久山の遺稿が大量に残されていることが判明した。その中には久山の履歴書も含まれており、それまで不明だった経歴の多くが明らかとなった。2006年(平成18年)、遺稿と新発見された作品からなる『久山秀子探偵小説選』III・IVが刊行された。
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