落語一家のおかみさんとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 20:33 UTC 版)
「海老名香葉子」の記事における「落語一家のおかみさんとして」の解説
第二次世界大戦中、静岡県沼津市の叔母宅に疎開した。家族と別れる当日、母から「香葉子は強い子よ。だから大丈夫よ。いつもニコニコしているのよ。笑顔でいれば必ずお友達もいっぱいできるし、みんなに好かれるのよ、どんなときでも笑顔でいるのよ」と言われたことが心に残っていると言い、自身の著書に記述され、インタビューでも度々語っている[要出典]。当時は国民学校の5年生だったが、その最中に起きた東京大空襲で、父である竿忠の3代目・音吉のほか、母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす。唯一生き残った三兄の喜三郎が4日後、ボロボロの姿で訪ねてきて「みんな死んじゃった。守れなかった。」と何度も泣きながら伝えられ、家族の死を知った。 身寄りを亡くしたため、終戦・帰京後は親戚をたらい回しにされるが、父の知人で釣り好きで知られた3代目三遊亭金馬に引き取られる。金馬家に七代目林家正蔵の妻が出入りしていた関係から、1952年 その実子であった初代三平と結婚し、以後三平の芸能生活を陰からサポートした。結婚から2か月程経過した頃に夫・三平が体調を崩し、同時期に長女・海老名美どりを妊娠していることが判明する。経済的にも苦しい時期で、姑のすすめで易学の姓名判断によりこの頃から「海老名香葉子」の名前を使う。長女の他、次女・泰葉、長男・泰孝(九代目林家正蔵、前名:こぶ平)、次男・泰助(二代目林家三平、前名:いっ平)と、4人の子供をもうけ、林家たま平 (泰孝の長男・泰良)、林家ぽん平 (泰孝の次男・泰宏)、下嶋兄ら6人の孫にも恵まれた。 しかし1980年、夫・三平が肝臓がんにより死去。この時、泰孝は「林家こぶ平」として父・三平の門下となっていた(三平の死去に伴い、惣領弟子の林家こん平門下に移籍)が、泰助はまだ小学4年生であった。以後は惣領弟子で一門を引き継ぐ形となったこん平を支え、自らも一門の精神的支柱となり、通常は師匠の死去に伴い一門は解散となる落語界にあって、今日に至るまで一門存続を可能ならしめている。なお、林家たい平がこん平に弟子入りを希望した際も、正式に弟子入りをするまでの間、香葉子はたい平に対して自宅で住み込み修行をさせている。ただ、次男のいっ平(泰助)が父の名跡である二代目三平を襲名した時点で、「従来の(初代)三平一門」は解散となり、以後「三平一門」は二代三平の一門を指すこととなるので、新たな形での夫一門の結束を模索している。そのひとつとして、夫を顕彰する「ねぎし三平堂」を設けた。 長年、家族・一門のマネジメントを行う個人経営の「ねぎし事務所」があり、夫の死後は先頭に立ってその運営を担っていた。2007年には法人化され、代表取締役となった。
※この「落語一家のおかみさんとして」の解説は、「海老名香葉子」の解説の一部です。
「落語一家のおかみさんとして」を含む「海老名香葉子」の記事については、「海老名香葉子」の概要を参照ください。
- 落語一家のおかみさんとしてのページへのリンク