華麗なる一族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:53 UTC 版)
詳細は「華麗なる一族 (競馬)」、「マイリー (競走馬)」、「キユーピツト」、「イットー」、および「ハギノトップレディ」を参照 荻伏牧場は1957年、それまで4、5頭しかなかった繁殖牝馬を拡充するために、イギリスから船を用いて複数頭を導入。スエズ動乱のためにスエズ運河が使えず、遠回りしてケープタウン経由で日本に至っていた。そして到着して横浜港に降り立った1頭が、マイリーである。マイリーは、ニアルーラを受胎した状態で乗船していた。船の中で出産する可能性が存在したが、入国2日後の動物検疫所内で出産を迎えている。その仔は神奈川県産、ぎりぎりのタイミングで内国産馬に分類された。キューピットという名で競走馬となり、1961年の阪神牝馬特別など9勝を挙げた。その後、キューピットは繁殖牝馬となったが、仔出しが悪く2頭しか遺せなかった。片方のヤマピットは、1967年優駿牝馬など9勝。ただし、繁殖となったヤマピットは1頭、牡馬のボージェストを遺したのみで死亡し、後継を遺せなかった。 キューピットの仔のもう片方、ヤマピットの妹にあたるミスマルミチは8勝あげて活躍中だったが、姉の死を受け、牝系を維持するべく急遽繁殖にまわっていた。初年度は、オーナーの斉藤隆の好きな種牡馬ヴェンチアと交配する。そうして産まれたのが、牝馬のイットーだった。イットーは、春のクラシック直前に、深管骨瘤、コズミを発症して、確勝と見られていた桜花賞を回避。続く優駿牝馬も回避。治癒後、夏の函館競馬場で逃げ切り、レコード優勝。牝馬三冠競走の最終戦エリザベス女王杯を目指して京都牝馬特別に臨むも、キシュウローレルの落馬骨折のあおりを受けて、10着敗退。7針縫う怪我、エリザベス女王杯も断念していた。不運に見舞われたクラシックだったが、古馬となってからは高松宮杯を逃げ切り優勝し、牡馬相手に実力証明。通算7勝を挙げた。引退の原因は、7針縫う怪我から1年後、再び京都牝馬特別にて、自らの後ろ脚で自らの前脚を蹴って怪我したためだった。 繁殖となったイットーの初年度は、荻伏がフランスから導入した種牡馬サンシーと交配する。そして産まれたのが、ハギノトップレディだった。ハギノトップレディは、デビュー戦を快速で飛ばして、日本レコードで優勝。その後怪我するも、クラシック直前に復帰し、イットーの出走できなかった桜花賞に出走。快速飛ばしてハイペースで引っ張り、そのまま逃げ切り優勝。優駿牝馬は大敗するも、秋のエリザベス女王杯で再び逃げ切り、牝馬二冠を果たした。古馬となってからは、宝塚記念からアメリカのアーリントンミリオン遠征も予定されたが、宝塚記念4着で遠征は断念。代わりに出走した高松宮杯で逃げ切り、後方に6馬身差の優勝。母娘高松宮杯制覇という快挙を成し遂げて、通算7勝で引退していた。 マイリーの子孫から、ヤマピット、イットー、ハギノトップレディ、加えてハギノトップレディの弟であるハギノカムイオーが活躍。荻伏牧場が維持、発展してきたこの牝系マイリー系は、志摩直人により「華麗なる一族」と名付けられ、広く使われるようになっていた。
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