菊栄と町の人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
菊栄の慈愛の心にすがって、家族ぐるみで助けを求めてくる人々もいたが、菊栄は迷惑にも感じずに救いの手を差し伸べた。退園生たちの縁者の他に、見ず知らずの人々もいたが、菊栄は区別することなく世話をした。 焼き芋の屋台を買ってもらった女性、行商のための元金を世話してもらった男性もいた。そうして商売に成功した人々が、後に金の返済のために菊栄のもとに訪れても、菊栄はそれを受け取ることはなかった。相談事に訪れた老婆が、風邪を引いていると知るや、わずか2着あるだけの自分の肌襦袢の1着を迷わず着せたこともあった。救いの対象や犬や猫など動物にまでおよび、一時は園が動物病院同然と化したこともあった。 細い体で献身的な活動を続ける菊栄は、いつからか、町の人々から「博愛園のおばあちゃん」の呼び名で親しまれた。園の子供から「先生」と呼ばれると「○○ちゃんは今、私を先生と呼んだように聞こえたけど、私は先生じゃのうておばあちゃん、おばあちゃんですよ。そう呼んでちょうだい」と返していた。買物先の店の帳簿でも「慈善協会のおばあちゃん」の名で通っていた。この呼び名は、菊栄が1922年(大正11年)に生まれた孫から「おばあちゃん」と呼ばれ始めたことがきっかけと伝えられている。 いつごろからか私のことを子どもたちはおばあちゃんと呼びはじめました。おばあちゃんといふのはいまでは私の固有名詞でございます。どこへでも博愛園のおばあちゃんで通るのでございます。私は先生ではなく、子どもらの肉親なのでございます。子ども等の御世話いただく国民学校の先生方も、市場の主人も、私をおばあちゃんと呼ぶのでございます。 — 岡上菊栄「三十余年の懐古」、武井 2003a, pp. 184–185より引用 菊栄のために食べ物を残しておき、菊栄が買い出しに行くと、決まって「ほら、持っていきや」と渡してくれる店も多かった。子供たちが下駄の鼻緒をよく切るために、鼻緒の修理を無償で引き受けてくれる下駄屋もあった。牛乳店の新人の店員が、菊栄の付けを集金して店に帰ったところ、店長から「あのおばあちゃんは自分で飲むのではなく、子供たちに栄養を付けさせるために飲ませている殊勝な人だ。そんな人から二度と集金するんじゃない!」とひどく怒られたという話もあった。 1924年(大正13年)2月に夫の栄吾が肺炎で死去し、夫の収入が途絶えた後には、菊栄は高利貸しに通って借金を申し込むようになったが、高利貸しの主人も菊栄が社会のために尽くしていることを知り「返済のことは気にしなくても良い」と言っていた。後の1941年(昭和16年)に三女の千代がこの借金の事情を知り、当時の自分の収入をやりくりして店へ返済に行くと、主人は「返済には及びませんのに」と、同情気味に返済金を受け取った。寄付金を募るために、1922年(大正11年)から主な町角に「同情函」が設置されていたが、寄付は微々たるものであり、皆無の月もあり、盗難もあったため、後に廃止された。 かつて在籍していた高知英和女学校の創立者であるアンニー・ダウドとは、在学当時の交流は無かったが、博愛園に勤めた後は、互いに尊敬し合う仲として、深い交流をもった。菊栄が風邪で寝込んだ際には、ダウドが食事を持って見舞った話もある。またダウドが1901年(明治34年)に女学会(後の清和女子中学校・高等学校)を開いた後には、菊栄は退園生の入会を相談したりもしていた。
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