茨木氏時代とは? わかりやすく解説

茨木氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:26 UTC 版)

茨木城」の記事における「茨木氏時代」の解説

茨木氏文安年間1444年 - 1449年)の『文安年中御番帳』に奉行1人として名前が見えることから、この頃より台頭していたと思われている。また茨木城文献上の初見は、応仁の乱東軍安富元綱方に属していた野田泰忠が応仁元年1467年5月20日、「摂州茨木之城に陣を構えた」と『野田泰忠軍忠状』から見受けられる文明14年1482年)に摂津国人一揆勃発細川政元鎮圧乗り出した。まず同年6月三宅城攻略、ついで同年7月には茨木三郎が守る茨木城攻略し同年10月には吹田が守る吹田城落城させている。 その後茨木長隆勢力拡大細川高国細川晴元との対立では、晴元方について高国敗死させ(大物崩れ)、天文7年1538年)には守護代となった。しかし、天文17年1548年)には晴元三好長慶対立するにいたり、翌天文18年1549年)の江口の戦い敗北し史上から名前が消えてしまったことから、この時に茨木長隆死亡した推察されている。茨木重朝に代が変わり室町幕府御家人として織田信長摂津入国永禄11年1568年))に臣従し、茨木本領安堵された。 茨木重朝は本圀寺の変野田城・福島城の戦い高槻城和田惟政と共に織田信長先兵として戦ったが、元亀2年1571年8月28日白井河原の戦いで重朝・惟政荒木村重中川清秀の間で戦闘勃発、重朝は惟政共々討ち取られてしまった。同年9月1日勢い乗った荒木軍は茨木城攻め落とすべく進軍開始茨木城兵も出撃太田郡の山で鉄砲、弓で進撃留めようとした支えきれず、結局城際まで攻めのぼった。この時活躍したのが荒木軍にいた名手熊田千助で外郭打ち破り虎口押し寄せた城主重朝は既に討死にしているものの、父の翫月斎やわずかな城兵城内残っていた。虎口付近で相当な乱戦になったようであるが、熊田千助が虎口突破三の丸占領し二の丸守っていた者達は開城降参した。いよいよ本丸だけになり、深夜裏切り者新庄城ではないかと言われている)が出て城は炎上落城した。 この戦いで茨木方の300名以上が討死にし、茨木氏滅びた

※この「茨木氏時代」の解説は、「茨木城」の解説の一部です。
「茨木氏時代」を含む「茨木城」の記事については、「茨木城」の概要を参照ください。

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