若年期と徒弟期間
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「ロヒール・ファン・デル・ウェイデン」の記事における「若年期と徒弟期間」の解説
ファン・デル・ウェイデンの父ヘンリはトゥルネーの刃物職人だった。ファン・デル・ウェイデンは1426年にブリュッセルの靴職人ヤン・ホッファールトと妻カテリナ・ファン・ストッケムの娘エリザベトと結婚した。二人の間には後にカルトジオ会修道僧になった息子のコルネリウス(1427年)や娘のマルガレータ(1432年)ら2人の子供が生まれた。1435年10月21日までにファン・デル・ウェイデン一家はブリュッセルに移住しており、この地でさらにピーテル(1437年)とヤン(1438年)の二人の息子が生まれている。1436年には「ブリュッセル公式画家 (stadsschilder )」の称号を得ている。当時のブリュッセルはブルゴーニュ公家の壮麗な宮殿が置かれていた重要な都市であり、ファン・デル・ウェイデンが手にした地位は非常に名誉なものだった。ブリュッセルはオランダ語圏だったため、ファン・デル・ウェイデンはそれまでの「ロジェ・ド・ラ・パステュール(牧場のロジェ)」というフランス語の名前をオランダ語に訳した「ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(牧場のロヒール)」に改めたといわれている。 ファン・デル・ウェイデンの修行時代に関する記録はほとんど存在しない。トゥルネーの古文書記録は第二次世界大戦ですべて失われており、19世紀と20世紀初期に転記された記録がわずかに残るのみである。ファン・デル・ウェイデンの前半生の情報は錯綜しているため、美術史家によって様々に解釈が異なっている。1427年3月17日にトゥルネーの市議会が「マイスターのロジェ・ド・ラ・パストゥール」を祝ってワインを贈ったという記録が残っている。しかしながら翌1428年の3月5日の聖ルカ組合の記録には「ロジェ・ド・ラ・パステュール」がジャック・ダレー(1404年頃 - 1470年頃)とともにロベルト・カンピンの工房に弟子入りしているという記載があるが、すでにこの時点で「ド・ラ・パストゥール」は独り立ちした画家として認められていたはずである。そしてカンピンに弟子入りしてからわずか5年後の1432年8月1日に「ド・ラ・パステュール」は画家のマイスターの称号を得た。すでに独り立ちしていた「ド・ラ・パステュール」が再び徒弟として修行を積んだ理由として、1420年代のトゥルネーは非常に混乱していた時期で、当地の芸術家ギルドも十分に機能していなかったためではないかと考えられる。同時期にカンピンに弟子入りしたジャック・ダレーは20代の間修行を続け、少なくとも10年以上カンピンのもとで過ごしている。 ファン・デル・ウェイデンが画家としてマイスターになる前に別の学術的組織からマイスターの称号を授与されており、トゥルネーの市議会からワインを贈られたというのは、後者のマイスター獲得の祝いだったという可能性もある。ファン・デル・ウェイデンの作品に見られる、洗練された「学術的造詣の深い」図像学的特徴と構成とを兼ね備えた高品質の作風が、この仮説を裏付ける根拠とされることがある。ファン・デル・ウェイデンの後半生における社会的文化的地位は、当時の単なる専門職人の地位を遥かに上回るものだった。ダレーがカンピンの弟子だったことは記録の上から明らかであり、カンピンの作品ではないかと考えられている絵画と、ファン・デル・ウェイデンの作風がよく似ていることから、ダレーと同時にカンピンに弟子入りした「ロジェ・ド・ラ・パステュール」がロヒール・ファン・デル・ウェイデンだったという説の裏づけの一つにもなっている。
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