船成金の代表格に、そして財閥化へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 00:43 UTC 版)
「山下亀三郎」の記事における「船成金の代表格に、そして財閥化へ」の解説
1909年(明治42年)以降、外航海運は好転し、山下も着実に海運業を発展させる。1911年(明治44年)6月には資本金10万円で組織を合名会社に変更して山下汽船合名会社を発足し、本店は東京市日本橋区北島町(現: 東京都中央区日本橋茅場町)に移転し、支店も神戸に開設した。 1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、海運業は空前の好景気となった。大戦前のトン当たりチャーター料3円、船価50円程度であったが、1917年(大正6年)にはチャーター料が国内で30円、ヨーロッパで45円、船価6,700円と十数倍になった。山下は勝田銀次郎・内田信也とともに三大船成金と称せられ、この船成金競争のトップを走ることになる。 この間、1915年(大正4年)6月には、満州の大連に山下汽船合名会社を設立、次いで11月に石炭部を分離独立させて山下石炭株式会社とし、翌1916年(大正5年)8月には渋沢栄一らと扶桑海上保険(現: 三井住友海上)を創立。さらに1917年(大正6年)5月には山下汽船合名会社を資本金1,000万円の株式会社に改組拡充して別会社の山下合名会社をつくり、8月には浦賀船渠株式会社(現: 住友重機械工業)を創立するなど、矢継ぎ早に事業を拡大していった。 1917年5月、山下汽船株式会社と改め、社長となったとき山下は50歳であった。海運業開始以来、船腹拡充に積極的に取り組み、不定期船事業の雄として山下汽船の名を高めた。大戦中、山下の上げた利益は実に年間2,900万円にのぼる。1919年(大正8年)当時の総理大臣の年俸は12,000円、各省大臣や東大総長の年俸は8,000円であったので山下がいかに巨額の利益をあげたかがうかがい知れる。1926年時点で日本最大の傭船主となり、1938年時点で不定期船オペレーターの支配船腹量において山下汽船が日本一となった。
※この「船成金の代表格に、そして財閥化へ」の解説は、「山下亀三郎」の解説の一部です。
「船成金の代表格に、そして財閥化へ」を含む「山下亀三郎」の記事については、「山下亀三郎」の概要を参照ください。
- 船成金の代表格に、そして財閥化へのページへのリンク