自己批判と総括
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日本共産党は1955年1月1日に武装闘争が「極左冒険主義」だったとして自己批判を行い、同年7月29日の第6回全国協議会(六全協)で武装闘争路線を否定した。 党の方針に従い、学業を捨て山村工作隊に参加した大学生もおり、参加者は六全協の方針転換に深い絶望を味わった。また参加者の回想は一部の新左翼機関誌に掲載されている。柴田翔の小説『されどわれらが日々――』(文藝春秋新社、1964年)の背景にも山村工作隊と六全協がある。 党は六全協の後、誤りをおかした党員であっても、分裂と武装闘争路線の誤りを認め、新しい方針を支持して真面目に努力する意思のある者は排除しない方針をとった。一方で、こうした日本共産党の平和革命路線への転換を受け入れなかった人々が日本の新左翼の起源のひとつとなった。 山村工作隊の活動は全く成果を上げることなく、日本の警察の取り締まりにより消滅した。摘発を逃れたメンバーの一部は、そのまま山中に籠もって自活の道を目指したが、日本共産党からの兵站補給も無く、放置されたまま自然消滅した。 現在、日本共産党は「五全協の方針は、分派(所感派)による党の分裂と党機関の乗っ取り、ソ連・中国による武装路線の押しつけによって生まれたもので、党として正式に採択した方針ではない。所感派による党の分裂と極左冒険主義は深刻な誤りであった。」としている。[要出典]しかし、労働省の「資料 労働運動史 昭和26年」によれば、1951年8月10日にコミンフォルムがその機関紙で四全協における「分派主義者に関する決議」を掲載して積極的支持を表明し、更にこれが同年8月14日にモスクワ放送で全文放送されるに至り、「国際派の諸組織は、たちまち、あいついで解散、復党」し、党の統一が回復され、その後、1951年8月21日に第20回中央委員会で51年綱領草案、草案発表にあたってのアピール、付随する五個の決議が採択されている。51年綱領は同年10月の五全協で審議を終結し、満場一致で採択されている。これは、51年綱領が分派が存在しない統一状態で日本共産党により採択された事を意味し、「分派によるもので党として正式に採択した方針ではない」という党の上記見解は史実に反するものと解される。
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