自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動とは? わかりやすく解説

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自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:33 UTC 版)

カール・マルクス」の記事における「自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動」の解説

エンゲルス参加していたバーデン・プファルツの武装闘争プロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルススイス亡命し、女と酒に溺れ日々を送るようになったマルクス彼に手紙送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住薦めた。これに応じてエンゲルス11月12日にはロンドンへやってきた。 エンゲルスやコンラート・シュラム(ドイツ語版)の協力得て新し雑誌創刊準備進め1850年1月からドイツ連邦自由都市ハンブルク月刊誌新ライン新聞 政治経済評論ドイツ語版)』を出版した。同誌の執筆者マルクスエンゲルスけだったマルクスは『1848年6月敗北』と題した論文数回わたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるのであるこの中でマルクスフランス2月革命経緯唯物史観基づいて解説し1848年革命そもそもの背景1847年不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌収まり始めたことで反動勢力反転攻勢はじまったことを指摘した結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号11月5号6号合併号のみで廃刊した。 ついで1851年秋からアメリカ合衆国ニューヨークで発行されていた当時20部の発行部数持っていた急進派新聞ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員となったマルクスはこの新聞社編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年ケルン知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降減らされるものの、借金追われるマルクスにとっては重要な収入源だった。マルクスは英語が不自由だったので記事執筆にあたってエンゲルスの力を随分と借りたようである。 マルクス寄稿した記事アメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判良かったという。アメリカ黒人奴隷制を批判したサザーランド公爵夫人英語版に対してサザーランド公爵家もスコットランド領地住民から土地奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判加えたこともある。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年アメリカで南北戦争勃発したことで解雇された(マルクス限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)。

※この「自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動」の解説は、「カール・マルクス」の解説の一部です。
「自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動」を含む「カール・マルクス」の記事については、「カール・マルクス」の概要を参照ください。

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