臨済宗青年僧の会機関紙『不二』で老師の垂誡
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「竹田益州」の記事における「臨済宗青年僧の会機関紙『不二』で老師の垂誡」の解説
「忍辱精進」私はよく『忍』の字を書きます。私は、九州は国東半島の百姓の三男として生まれ、随分貧しい幼少を過ごしました。丁度、日露戦争のさなか、十一才の時、或る因縁で、近江は堅田の大徳寺派祥瑞寺に小僧として出家したのです。この寺は、かの一休禅師も二十歳頃に住まわれた格式の高い寺で、境内も七反という立派なものでしたが、檀家はごく少なく、葬式や法事は当然少なく、今迄の貧しかった生活に輪をかけて、小僧修行の厳しい日が続きました。その後、十六才の時、京都に出て大徳寺境内の般若林の学生になり、勉学に励みました。この頃も、郷里から何も送ってばこないし、随分ひもじい生活でした。もっと勉強したかったが、学資の都合で進学は叶わず、二十才の春、建仁僧堂に掛塔しました。僧堂では、鞋資が月に三十五銭か五十銭もらえましたし、お粥や何かは食べれましたから、むしろ、家より楽だと思ったこともあります。そんなこんなで、今迄、教えられてはいたけれどわからなかった「忍辱精進」ということが、だんだん、実地に有難く思うようになっていきました。辛抱はしなければいかんと思います。「忍の徳たること持戒、苦行も及ぶこと能わざる所、能く忍を行ずる者、乃ち名づけて有力の大人と為すべし」という遺教経のことばにあるとおりだと思い、このような心がジワジワと理解できるようになっていったのです。或る時、默雷老師に「忍」の字の揮毫を頼みますと、何故か忍の字を書かず、「刻苦光明必盛大也」という八字を書いて下さいました。ここの默雷老師の下で、十七年間、辛抱しました。以上一部抜粋。
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