臨済宗青年僧の会機関紙『不二』で老師の垂誡とは? わかりやすく解説

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臨済宗青年僧の会機関紙『不二』で老師の垂誡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:43 UTC 版)

竹田益州」の記事における「臨済宗青年僧の会機関紙『不二』で老師の垂誡」の解説

忍辱精進」私はよく『忍』の字を書きます。私は、九州国東半島百姓三男として生まれ、随分貧し幼少過ごしました。丁度、日露戦争のさなか、十一才の時、或る因縁で、近江堅田大徳寺派祥瑞寺小僧として出家したのです。この寺は、かの一休禅師二十歳頃に住まわれ格式の高い寺で、境内も七反という立派なものでしたが、檀家はごく少なく葬式法事は当然少なく今迄貧しかった生活に輪をかけて小僧修行厳しい日が続きましたその後十六才の時、京都出て大徳寺境内般若林学生になり、勉学励みました。この頃も、郷里から何も送ってばこないし、随分ひもじい生活でした。もっと勉強したかったが、学資都合進学は叶わず、二十才の春、建仁僧堂掛塔しました僧堂では、鞋資が月に三十五銭か五十銭もらえましたし、お粥何かは食べれましたから、むしろ、家より楽だ思ったこともありますそんなこんなで、今迄教えられてはいたけれどわからなかった「忍辱精進ということが、だんだん、実地有難く思うようになっていきました辛抱はしなければいかんと思います。「忍の徳たること持戒苦行も及ぶこと能わざる所、能く忍を行ずる者、乃ち名づけて有力の大人為すべし」という遺教経のことばにあるとおりだと思いこのような心がジワジワ理解できるようになっていったのです。或る時、默老師に「忍」の字の揮毫頼みますと、何故か忍の字を書かず、「刻苦光明盛大也」という八字書いて下さいました。ここの默老師の下で、十七年間辛抱しました。以上一部抜粋

※この「臨済宗青年僧の会機関紙『不二』で老師の垂誡」の解説は、「竹田益州」の解説の一部です。
「臨済宗青年僧の会機関紙『不二』で老師の垂誡」を含む「竹田益州」の記事については、「竹田益州」の概要を参照ください。

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