美術館の大掃除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:54 UTC 版)
1937年4月、宣伝省はナチス政権獲得4周年と、経済・軍事・政治での四カ年計画の功績を記念する展覧会を企画し、同時に退廃美術を誹謗する展覧会も開こうとした。彼らは全国造形美術院の紹介で『芸術神殿の清掃』を出版したばかりのヴォルフガング・ヴィルリヒらをナショナル・ギャラリーなど各地の美術館に派遣し作品をリストアップさせようとしたが、各地の美術館の抵抗にあったほか、宣伝省や全国造形美術院の間で「誰から誰までを退廃芸術家と見るか」で議論になり、計画は頓挫した。 これに対し、6月30日、ゲッベルスはミュンヘンで7月から予定されていたドイツ民族の芸術を一堂に集めた『大ドイツ芸術展』に退廃芸術の展覧会をぶつけるアイデアを思いつく。ゲッベルスはツィーグラーと相談し、その日のうちにヒトラーの許可を得たことで、後世に悪名高い『退廃芸術展』が動き出した。6月30日のうちにツィーグラーには、ドイツ国、州、市町村が所有する1910年以降の退廃作品を展覧の目的で搬出できるという権利が与えられた。ツィーグラーはヴィルリヒや他の画家、宣伝省官僚ら、自身も入れて計5人の委員会(後に、死刑執行委員会とあだ名されることになる)を結成し、ヴィルリヒらが春に作ったリストをもとにベルリン、ハンブルク、マンハイム、デュッセルドルフ、フランクフルト、ドレスデン、ブレスラウ、その他ドイツ各地の20ヶ所以上の美術館を訪問し、ポスト印象派、表現主義、新即物主義、幾何学的抽象などの作品を押収した。多数の美術館員がコレクションを守るために様々な手段で押収を拒否したりコレクションを隠し通したりしたが、結局押収されてしまった美術品は絵画5,000点、版画12,000点など膨大な数に登った。展覧会の発案から委員会結成、作品押収、そして7月19日の退廃芸術展本番開催までわずか3週間しかかからなかった。退廃芸術家とされた者はドイツ人ばかりでなく、多数のフランス人、オーストリア人、ポーランド人、ロシア人、スイス人、ノルウェー人などが含まれていた。近代美術が国を超えた広がりを見せていたことを反映するが、ナチスの糾弾の対象である「退廃芸術」の枠組みも、ドイツを超え全ヨーロッパに及ぶにいたった。
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