美濃国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:38 UTC 版)
元々対岸の美濃側の方が地盤が低かった上に尾張国側にさらに堤防が築かれたことで美濃国側で水害が激増した。美濃国は江戸時代を通じて洪水に悩まされ続け、各村は村または周辺の村と共同で土地を堤防で囲み、輪中を造って洪水に備えることになった。また、尾張藩の洪水を防ぐために、美濃国は御囲堤に対し3尺(約1m)低い堤防しか築いてはならないという不文律が存在したと言われる。 ただし、美濃側の堤防を低く抑えさせたことについては、当時の史料・記録類からは確かめることが出来ず、尾張側の堤防が三尺高くされたのも江戸後期の寛政年間とされる。また、御囲堤は木曽川の川筋よりも内陸側に築かれたことと河口までは伸びてはいなかったことから、尾張国内でも、堤より川側の愛西市旧・立田村域、河口付近の弥富市などの地域では輪中が造られる等の状況が見られたし、そもそも美濃の輪中地域にも支藩の高須藩を含めれば5万8千石分ほどの尾張藩領が存在していた。そのため、御囲堤に関する伝承は、あくまで伝承の域に留めるべきではないかとの意見もある(木曽三川流域誌編集委員会,中部建設協会/編、『木曽三川流域誌』、中部地方建設局発行、1992年)。 また美濃側に洪水が多かったのも濃尾平野全体が西に傾斜しており、木曽三川では単に愛知県側(現木曽川)が一番水位が高く、低い揖斐川方面に水が流れた結果だとも言える。しかし、尾張藩が他藩の堤の高さを規制し得たかはともかく、小領の分立する美濃に対し、尾張一円を支配する大藩であり、木曽川上流の木曽谷まで領有し、木曽川流域に対する強い権限を持つ尾張藩が、木曽川の治水に関して優位な立場にあったのは事実である。
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