繁栄と解体とは? わかりやすく解説

繁栄と解体

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)

モンゴル帝国」の記事における「繁栄と解体」の解説

モンゴル帝国の再編とともにユーラシア大陸全域を覆う平和の時代訪れ陸路海路には様々な人々自由に行き交う時代生まれたモンゴル関税撤廃して商業振興したので国際交易隆盛し、モンゴル征服されなかった日本東南アジアインドエジプトまでもが海路通じて交易ネットワーク取り込まれた。後年この繁栄の時代パクス・モンゴリカ(あるいはパクス・タタリカ)と呼んでいる。 しかし、元では1307年テムル死後皇后ブルガンアナンダ擁立しようとしたが、テムルの兄ダルマバラ夫人ダギクーデター決行し息子カイシャンハーン位据えた1311年カイシャン死後ダギカイシャン側近追放して実権握った1322年ダギ死去すると、翌1323年御史大夫テクシ旗下アスト衛兵シデバラ暗殺され南坡の変起こってからは、君主位を巡る対立抗争が相次ぎ次々君主交代して王朝安定失われていった。さらにモンゴル諸政安定にとどめを刺したのはペストの大流行はじめとする疫病天災続発であったドゥアの子相次いで当主立っていたチャガタイ・ウルスは、1334年当主タルマシリン死後東西分裂したイルハン朝では1335年アブー・サイード没した後に後継者争いの末にフレグ王統断絶ジョチ・ウルスでは1359年左翼諸家当主オルダ家に続いてジョチ家宗家であるバトゥ王統断絶し傍系王子たち擁立する有力者同士争い起こって急速に分裂していった。 大元ウルスでも1351年起こった紅巾の乱によって経済中心地であった江南失い1368年、ついに紅巾党首領ひとりであった朱元璋立てた明によって中国追われた。北元呼ばれるようになった元はモンゴリア拠って明への抵抗続けるが、1388年クビライ王統最後カアントグス・テムル内紛により殺害され、かつてモンゴル帝国構成した諸部族分裂した

※この「繁栄と解体」の解説は、「モンゴル帝国」の解説の一部です。
「繁栄と解体」を含む「モンゴル帝国」の記事については、「モンゴル帝国」の概要を参照ください。

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