縫製作業所 - 女性失業者の救済
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「エリザ・ルモニエ」の記事における「縫製作業所 - 女性失業者の救済」の解説
1845年に、シャルルがサン=シモン主義の実業家ペレール兄弟(フランス語版)の北部鉄道の訴訟を担当することになり、再びパリに引っ越した。 1848年の二月革命によって臨時政府が成立すると、エリザは、ウジェニー・ニボワイエらサン=シモン主義の女性たちとともに「1848年の女性たち」と呼ばれる運動を起こした。この運動の機関紙が、1848年3月20日にニボワイエが創刊した『女性の声(フランス語版)女性の声』紙であり、同紙には臨時政府への労働者代表の参加、失業女性のための国立作業所(フランス語版)の設置などを要求する、リュクサンブール委員会(フランス語版)宛の多くの請願書が掲載された。 エリザは、革命の後に失業に追い込まれた女性たちを救うために、友人数人の協力を得て、フォーブール・サン・マルタン通り(フランス語版)(パリ10区)に縫製作業所を設立し、病院や監獄に納入する衣類を製造した。資金の前借り、布地の調達、帳簿付け、仕事の配分や監督、納品まで休む暇もなく活動を続け、2か月間で200人以上の母親に仕事を与えることができた。この経験から、彼女は管理者として自信を持つようになり、同時にまた、たとえば、布団を縫うといった仕事でも経験がなければできないことから、女子職業教育の必要性を痛感した。また、女性の就労を促すためには家事・育児労働を軽減する必要がある。このためには洗濯場、託児所、下着製造販売所を備えた施設も必要になる。このようなエリザの提案は「1848年の女性たち」の臨時政府に対する請願書に盛り込まれた。
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