編成、第2次ブルラン、アンティータム
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「第9軍団 (北軍)」の記事における「編成、第2次ブルラン、アンティータム」の解説
正式に軍団番号が与えられたのは1862年7月22日であるが、第9軍団の組織自体は1862年2月のアンブローズ・バーンサイドによるノースカロライナ遠征に遡る。6月にノースカロライナ遠征が北軍の勝利で終了すると、バージニア州ニューポートニューズにおいて、ノースカロライナ遠征に参加したバーンサイドの2個師団とアイザック・スティーブンス准将の師団を中核とし、3個師団に編成の第9軍団が組織された。師団長は、スティーブンス、ジェシー・リー・リノ少将及びジョン・パーク(John G. Parke)少将であった。 第9軍団はポトマック軍に所属していたが、ニューポートニューズに短期間滞在した後、ジョン・ポープ少将のバージニア軍を補強するよう命令を受け、8月28日-30日の第二次ブルランの戦いに参戦した。これが第9軍団にとって初めての戦闘であったが、スティーブンスとリノの2個師団のみが参加し、その戦力は12個連隊、2個砲兵中隊で兵力は5,000人以下であった。バーンサイドが不在であったため、リノが代理の軍団長を務めた。第二次ブルランの戦いでの損害は、戦死204人、戦傷1,000人、行方不明319人の合計1,523人であった。いくつかの連隊は南軍の激しい砲火にさらされ、第28マサチューセッツ連隊は234人の損害を出している。 その後第9軍団はポトマック軍のメリーランド方面作戦に加わった。バーンサイドはポトマック軍右翼の司令官として第1軍団と第9軍団を指揮したため、リノが引き続き第9軍団の司令官を務めた。スティーブンスは9月1日のシャンティリーの戦いで戦死しており、スティーブンスに代わって第1師団長にはオーランド・ウィルコックス(Orlando B. Willcox)が就任し、第2師団長はサミュエル・スタージス(Samuel D. Sturgis)、第3師団長はアイザック・ロッドマン(Isaac P. Rodman)が任じられた。メリーランド方面作戦中は、ジェイコブ・ドルソン・コックスのクナーウ師団が一時的に所属した。また、いくつかの連隊も追加され、4個師団の戦力は29個連隊、5個砲兵中隊、総人員13,819人(非戦闘員含む)であった。 1862年9月14日のサウス山の戦いは、ほぼバーンサイドのポトマック軍右翼のみが戦った。サウス山の戦いは北軍の勝利に終わったが、第9軍団は戦死157人、戦傷691人、行方不明41人の合計889人の損害を出した。第1軍団の損害もほぼ同程度であった。リノはこの戦いで戦死し、コックスがその後を引き継いだ。9月17日にはアンティータムの戦いが発生、北軍が勝利し南軍のメリーランド侵攻は終わった。この戦いでは両軍共に大損害を受けたが、第9軍団は約8500名の実働人員に対し、戦死438人、戦傷1,796人、行方不明115人の合計2,349人の損害を受けた。第3師団長のロッドマンも瀕死の重傷を負った。コックスの師団は、この戦役の後にバージニアに戻った。この師団はサウス山とアンティータムで輝かしい勇気を示していた。 コックスは軍団を去り、ウィルコックスが軍団長となった。ウィルコックスの後任の第1師団長にはウィリアム・バーンズ(William Wallace Burns)が就任した。ロッドマンの後任の第3師団長にはジョージ・ゲッティ(George W. Getty)が就任した。 1862年11月5日、バーンサイドはポトマック軍の司令官に任命され、アメリカ連合国の首都リッチモンドを目指し南下した。12月11日 - 12月15日のフレデリックスバーグの戦いでは、第9軍団は第2軍団と右翼大師団(Right Grand Division)を構成し、エドウィン・サムナー少将がその指揮をとった。第9軍団の兵力は31個連隊、5個砲兵中隊であったが、フレデリックスバーグでは戦死111人、戦傷1,067人、行方不明152人、合計1,330人の損害を受けた。北軍は敗北し、北へ引き上げた。この戦いの後しばらくして、ジョン・セジウィックが軍団長となり、ウィルコックスは師団長に戻った。
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