線路分断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 03:46 UTC 版)
1945年、第二次世界大戦において日本が敗戦した後、朝鮮半島は北緯38度線を境に南はアメリカ軍、北はソ連軍に占領され、この影響により同年9月11日に京義線は北緯38度線を境に南北に分断される。 ただし当時、開城は38度線より南の韓国側であったため、朝鮮戦争が勃発するまではソウル方面から土城駅(現:開豊駅)(更に土海線(現:白川線)に乗り入れて青丹駅)まで鉄道で行くことができた。しかし、朝鮮戦争勃発により南北の占領地域が激しく変わったため、細かい運行地域は不明であるが、朝鮮戦争の休戦後、韓国側では長らく軍事境界線のおよそ10km手前にある文山(京畿道坡州市)までの運行となった。 韓国側の区間は46kmあまりと短く、沿線に大都市も無かったため、事実上幹線の機能を喪失し、単線化されてローカル線状態となった。一方、北朝鮮側では開城から新義州までを結ぶ路線として運行が行われ、平壌 - 北京を結ぶK27/28次列車のルートとなるなど、幹線の機能を維持した。北朝鮮では平壌以北を平義線、平壌以南を平釜線(京釜線のソウル - 釜山間も含む)と呼ぶ。 ソウルへの人口集中が進み住宅不足が深刻になったことから、軍事境界線に近く開発の手が及んでいなかった京義線沿線にも大規模な住宅開発が行われるようになった。1980年代末にはソウルに隣接する高陽郡の農村地帯に一山新都市というニュータウンの開発計画が発表され、1990年代には開発が本格化し人口は急増。これに合わせ、京義線は広域電鉄化が進められ、2009年には首都圏電鉄京義線が誕生し、2014年には中央線との相互乗り入れが始まり首都圏電鉄京義・中央線となっている。
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