緊張関係の高まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 16:02 UTC 版)
「アルーストック戦争」の記事における「緊張関係の高まり」の解説
論争のあった地域の住民特性は様々だった。セントジョン川とマダワスカ川沿い開拓者の多数派は初期アカディア人だった(原初フランス人入植者の子孫)。アルーストック川流域に近年入った開拓者はアメリカ人だった。1826年から1830年の間に、製材関係者がセントジョン川西岸やその支流に入り、ウッドストック、トビークおよびグランドフォールズにはイギリス人家族の家があった。 マダワスカのフランス語を話す住民は「ブラヨン」と呼ばれる通常はイギリスに従属している民だが、少なくとも言葉の上では非公式な「マダワスカ共和国」に属していると自分達のことを考えていて、アメリカにもイギリスにも恭順しているという訳ではなかった。しかし、木樵達が農作業から解放されてセントジョン川上流に「長旅」する冬季にはこの地域の人口が外部の者で脹れ上がった。これら移動性の木樵達の存在はそれぞれの州の資源や歳入の保護に責任のあるメイン州やマサチューセッツ州政府にとって緊張関係を特に高める事項だった。木樵達の或る者は恒久的に流域に入植することになった。開拓者の大半は自分達が当局筋からあまりにも離れているので、土地に対して正式な利用申請ができなかった。最良の樹林の支配を巡って党派が動いたときに論争が過熱した。 1827年7月4日、現在のベイカー・ブルックとセントジョン川の合流点西側に、ジョン・ベイカーが妻の作ったアメリカ国旗を掲げた。ベイカーはその後イギリス植民地管理者に逮捕され、25ポンドの科料を言い渡され、その科料を払うまで投獄された。 1830年アメリカ合衆国国勢調査の準備過程で、メイン州議会はジョン・ディーンとエドワード・ジェイムズをメイン北部、すなわちニューブランズウィック州北西部に派遣し、住人の数を調べ、イギリス人の不法入国(かれらの見解)の程度を評価させた。夏の間、セントジョン川西岸の住人数人が、マダワスカでメインに取り込まれるべく申請した。ペノブスコット郡役人の忠告もあって、マダワスカに町制を布くための準備として代表を選出する集会が招集された。この集会の間に、ニューブランズウィック州民兵隊の地元の代表がセントジョン川東岸の地元住民に警告されて、集会所に入り組織化を試みる者は誰でも逮捕すると脅した。しかし集会は続けられ、より多くの民兵が到着し、住民の何人かは逮捕され、ある者は森に逃げ、文書がオーガスタのメイン州当局に送られた。文書はワシントンD.C.のアメリカ合衆国政府にも送られ、アメリカ合衆国国務長官がイギリス駐米大使と接触した。しかし、住民の大半であるアカディア人はアメリカにもニューブランズウィックにも加わることについて態度を決めかねていたが、フランス語を話すケベック州には一体感があった。ケベック州もマダワスカの領土請求をしていた。
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