綿作の導入とその失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 13:25 UTC 版)
「オキナワ移住地」の記事における「綿作の導入とその失敗」の解説
1960年代末期、移住地は洪水による被害が大きく、特に1968年2月のグランデ川の氾濫では、第1移住地の北部一帯が水没した。またこのころ旱魃による被害も深刻であった。このため多くの移民者がオキナワ移住地を去ることになった。 この頃、サンタ・クルス県では綿花栽培のブームが起きていた。オキナワ移住地でも、1970年に綿花の試験栽培を行なうことになった。その結果、綿花は旱魃に強く、予想以上の収穫があったため、正式に導入することになった。 1971年、第1移住地、第2移住地、第3移住地のそれぞれ別個にあった農業協同組合を統合し、「コロニア沖縄農牧総合協同組合」(略称:CAICO)が発足した。1972年4月に、繰綿工場が完成した。1973年には、綿花の栽培面積が4,400ヘクタールに達し、綿つみの労働者を数千人も雇用するまでに達した。 しかし、1974年のグランデ川の氾濫により第1移住地が多大な被害を出し、また異常気象による収穫減が続き、綿花の耕作地は減少に転じた。さらにオイルショックによる世界的な綿花の暴落が深刻な影響を与えた。こうして、数年で綿花栽培は行き詰まり、移住者達は総額130万ドルの借金を抱え込む結果となった。 多額の借入金に困窮した移住者達は、代表者3名を日本に送った。代表団は、沖縄選出の国会議員や新聞社を訪ねて、移住地の窮状を説明し、支援を要請した。 その後も、ほそぼそと綿花栽培は続けれられたが、1981年に繰綿工場も閉鎖した。綿花栽培の失敗は、移住者達に多額の借財を負わせる結果となった。 1977年、オキナワ第3移住地で石油公団により石油掘削が行われることになった。新聞に第3移住地はボリビア随一の産出量と報道され、移住地は全員立退きという話が出て、大騒ぎとなった。その後、石油産出量が少ないことが判明し、油田開発は中止となった。
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