綿伝来の伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/29 22:13 UTC 版)
日本後紀、類聚国史、大日本史などに、以下のような内容の記述がある。 延暦18年(799年)、三河国幡豆郡(現在の矢作古川の河口付近)に1艘の小船が漂着した。その船には1人の若者がいたが、全く言葉が通じなかった。唐人は「彼は崑崙人だ。」と言ったという。 この崑崙人は、布で背を覆い、ふんどしをつけ、左肩に袈裟に似た紺色の布を着けた服装であった。所持品は一弦琴と壺などであり、この壺に綿の種子が入っていた。 崑崙人はこの地に住み、住民に綿の栽培を伝えた。さらに、紀伊国、淡路国、阿波国、讃岐国、伊予国、土佐国、筑前国などでの栽培方法を伝えたのち、近江国国分寺で僧侶となったという。 崑崙人が漂着した地は、天竺と改称され、その後天竹となったという。
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