継続する議論(1947年から1953年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 19:00 UTC 版)
「トルコ海峡危機」の記事における「継続する議論(1947年から1953年)」の解説
1946年11月にトルコ政府は駐モスクワ大使にファイク・アクドゥル(Faik Akdur)を任命した。トルコのイスメト・イノニュ大統領はアクドゥルに対し、ソ連との関係を一層発展させることに専念するよう指示した。アクドゥルはまた、海峡に関する交渉が行われた場合、その交渉に携わることを明確に禁じられた。 アメリカはダーダネルス海峡とボスポラス海峡の命運を最終的に決めるための国際会議の開催を提案した。アメリカにより特徴づけられた風潮の中で開かれた会議は、セルゲイ・ヴィノグラドフ(Sergei Vinogradov) の意見では、ソ連が確実に投票で負けるため容認出来ないと彼が主張し、当時の駐トルコ大使だった彼から1946年12月10日にソ連政府に送られた覚書の形での返答を裏付けた。彼はソビエト連邦外務省の揺るぎない永遠の目標である体制変革の代わりに、海峡を規制する現在のインフラが、多少の変化はあっても存続するだろうと予測した。 海峡危機の最初の1年半の間に駐トルコのソ連大使であったヴィノグラドフは1948年にソビエト連邦共産党政治局によって交代され、彼の後任を務めたアレクサンドル・ラヴリシェフ(Aleksandr Lavrishev)は海峡に関する最後のソ連の重要文書となった一連の指示をソビエト連邦外務省から受けた。 If the Turks want to know our stand on the straits, an answer would be as follows: the Soviet position has been thoroughly stated in the notes dated August 7 and September 24, 1946. 海峡に対する我々の見解をトルコが知りたいのであれば、回答は次のようになるだろう。すなわちソビエト連邦の意見は1946年8月7日付及び9月24日付の文書にて十分に明言されている。 — Soviet Foreign Ministry、Point #4 of the "Instructions for the Ambassador to Turkey" – March 29, 1948 ヨシフ・スターリンの死と国葬の後、ソ連政府内では体制変革の機運が低下し、1953年5月30日にモロトフはボスポラス海峡とダーダネルス海峡をめぐるソ連の主張、ならびにトルコ・アルメニア・グルジア国境でのその他の領土問題の関与を否認した。
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