絶対主義の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:44 UTC 版)
エーバーハルト・ルートヴィヒ(在位1677年 - 1733年)は父ヴィルヘルム・ルートヴィヒの早死のためにわずか1歳で公爵位を継いだが、エーバーハルト・ルートヴィヒの長い治世にヴュルテンベルクは近隣国をいじめることの好きなフランスの太陽王ルイ14世と関わることになった。ヴュルテンベルクは1688年、1703年、1707年にフランス軍の侵攻を受け、フランス人たちは公国の領民に残虐行為を働いて苦しめた。ヴュルテンベルクは人口も少ないため、この時期にピエモンテ地方の峡谷から追われたヴァルド派のプロテスタント難民たちを喜んで迎え入れ、このおかげで公国はいくぶん繁栄を取り戻した。しかしエーバーハルト・ルートヴィヒは愛妾のヴィルヘルミーネ・フォン・グレーフェニッツに贅沢をさせ、領民は彼女のせいで国が傾くことを恐れていた。この愛人問題もあって、エーバーハルト・ルートヴィヒは一概に高い評価を得た君主とは言えない。またエーバーハルト・ルートヴィヒは1704年、シュトゥットガルトの北にヴェルサイユ宮殿を模したルートヴィヒスブルク宮殿を建設した。 エーハーハルト・ルートヴィヒの後を継いだ従弟のカール・アレクサンダー(在位1733年 - 1737年)は、オーストリアに将軍として出仕していた頃にカトリックに改宗していた。カール・アレクサンダーが最も信任していた助言者はユダヤ人のヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマー(「ユダヤ人ジュース」とも呼ばれる)であった。いずれもプロテスタントでない公爵とその顧問による統治に対して、領国の人々は彼らが領邦議会を閉鎖して絶対主義を採用し、さらに領国の体制宗教をカトリックに変更するのではないか、という疑いを持つようになった。しかし1737年3月にカール・アレクサンダーが急死すると、こうした不安も消えた。公国の摂政となった分家筋のヴュルテンベルク=ノイエンシュタット公カール・ルドルフは、オッペンハイマーを処刑した。 カール・オイゲン(在位1737年 - 1793年)は1744年に親政を開始し、為政者としての才能を示したものの、しかし乱暴で贅沢好きな人物でもあった。カール・オイゲンはすぐに無能な寵臣たちに操られるようになった。公爵はシュトゥットガルトに「新宮殿」を建設するなど様々なことに莫大な金を使った。またカール・オイゲンが七年戦争で同じプロテスタント国家のプロイセンと敵対したことは、ヴュルテンベルク公国の住民たちには不人気だった。 カール・オイゲンの治世は君主と臣民の間の不和が最も注目すべき問題だった。公爵が不正かつ身勝手なやり方で税金を吊り上げたことは、領民に大きな不満を抱かせた。神聖ローマ皇帝とその他の近隣列強国による仲裁もあって、1770年にはヴュルテンベルク国内の君主と臣民の対立は一応調停され、臣民の怒りも幾ばくかは収まった。しかしカール・オイゲンはこの時の約束を守らず、晩年になって再び臣民に対する新たな譲歩を強いられている。
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