絶対主義の六年間
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「フェルナンド7世治世下のスペイン」の記事における「絶対主義の六年間」の解説
1814年5月4日、フェルナンド7世はカディス・コルテス(英語版)とそこで制定された1812年憲法の無効を宣言した。ここに「絶対主義の六年間 (Sexenio Absolutista) 」(1814年–1820年)が始まった。 国王に対してはもとより5月4日の宣言に対して反抗の意を表した者はごく少数であった。自由主義的軍人らは逮捕され、マドリードで騒擾が若干発生したが軍隊により速やかに鎮圧された。カスティーリャ枢機会議(英語版)が再建され、市長 (alcalde) 職が廃止され、総監領 (capitanía general) 制が再建された。イエズス会も復権し、異端審問が復活した。 その後数年間、フェルナンド7世の絶対王政に反対する自由主義者らのプロヌンシアミエント (pronunciamiento) が相次ぎ、1814年にエスポス・イ・ミナ(英語版)、1815年にディアス・ポルリエル(スペイン語版)、1817年にラシ(英語版)将軍の発したものが最も有名であるが、いずれも成功には至らなかった。 しかし、1820年1月1日、ラス・カベサス・デ・サン・フアン(英語版)においてラファエル・デル・リエゴ大佐ほか自由主義的将校らがカディス憲法の復活を宣言した。この運動は2月末には形勢悪化して窮地に陥ったが、ガリシアでもカディス憲法を支持する反乱が複数発生した。 反乱は全国に急速に広がり、3月7日にはバリェステロス(英語版)将軍の反乱軍が王宮周辺を占拠した。フェルナンド7世は自由主義憲法を受け入れることを余儀なくされ、「自由主義の三年間 (Trienio Liberal) 」(1820年–1823年)が始まった。
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