経済学者から政治家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 00:55 UTC 版)
「マンモハン・シン」の記事における「経済学者から政治家へ」の解説
インドに帰国してからは経済学者として活動し、パンジャーブ大学とデリー大学で経済学の教鞭を取る。同時に国際連合貿易開発会議(UNCTAD)に勤務していた期間もある。その後中央政府の官僚となり、インド外国貿易省とインド大蔵省でそれぞれ経済顧問として働き、さらに1976年から1980年までの期間にインド大蔵省の事務次官を務めた。それからも1982年から1985年までインド準備銀行(中央銀行)総裁、1985年から1987年まで経済計画委員会副委員長、1990年から1991年まで首相経済諮問委員会委員長を務めるなど、要職を歴任した。 1991年6月に国民会議派のナラシンハ・ラーオ政権で大蔵大臣に就任した。当時インドは経済危機に直面していたが、シンは首相のラーオとともに経済危機克服に乗り出し、今までインド政府が行ってきた社会主義的な計画経済の代わりに市場主義経済を導入した。そして多岐にわたる経済改革を推進し、産業ライセンス制度の撤廃や対内直接投資の規制緩和、国営企業の民営化などを行った。結果としてインド経済は危機を克服し、実質経済成長率も1991年には2.1%だったものが1996年には7.6%にまで伸び、中国に次ぐ経済発展に成功し、インドの財務大臣も務めたP・チダンバラムからは「インドの鄧小平」とまで称えられることとなった。この功績により、1997年には第2回日経アジア賞を受賞している。 また、1991年から上院議員も務め、1995年、2001年、2007年にそれぞれ再選している。インド人民党が政権の座にあり、国民会議派が野党だった期間には、1998年から2004年まで上院の野党院内総務を務めている。
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