経済学者から政策立案者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/31 15:26 UTC 版)
「ハーバート・ファイス」の記事における「経済学者から政策立案者へ」の解説
ニューヨーク市ロウワー・イーストサイド出身。ニューヨーク市立大学を経て、1916年ハーヴァード大学を卒業。同大大学院に進み博士号を取得した。大学時代に知り合った20代大統領ジェームズ・ガーフィールドの孫娘と結婚し、リベラル派の法学者であるフェリックス・フランクファーターなどと親交を深めた。博士号取得後は経済学者として、カンザス大学准教授、シンシナティ大学教授などを歴任する。 ファイスは大学では著書『帝国主義外交と国際金融』に見られるように外交と国際経済の連動を研究テーマとし、国際主義と自由貿易を支持する論客として時事評論でも活躍していたことから、1931年には欧州諸国との戦債交渉を抱えるハーバート・フーヴァー政権下の国務省に招聘され、経済問題顧問に就任する。この人事にはヘンリー・スティムソン長官の知人であったフランクファーターの影響もあったとされる。 1933年のフランクリン・ルーズベルト政権の成立後も引き続き経済顧問に留任し、1933年6月から7月に開催されたロンドン世界経済会議にはコーデル・ハル長官の随員として出席。1937年からは国際経済問題顧問に就任し、第二次世界大戦前夜から戦時期にかけて、省内のブレーントラストとしてではなく、実務家として政治と経済の交わる外交課題に関与することとなる。 1944年、ファイスは国際経済問題顧問を辞職、旧知のスティムソンが長官を務める陸軍省の顧問を1946年まで務め、ドイツ占領政策に関与した。1948年からはプリンストン高等研究所に着任し、国務省政策企画本部に勤務した1950年から51年の時期を除き、没するまでプリンストンで研究に従事した。
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