組織・訓練・人材
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ペタ設立の正式決定後、その編成の中心メンバー「助教」となったのは、ジャカルタ近郊のタンゲランにあった、1942年の末から設立されていた「青年道場」(インドネシア特殊要員養成隊、隊長:柳川宗成中尉)のインドネシア人青年たちだった。「青年道場」に入る資格は、愛国心と宗教(イスラム教)心があることと、中学校を卒業したインドネシア人であることであった。この青年道場は日本の中野学校出身の情報士官らによって設立された機関で、インドネシア人青年にゲリラ戦や情報戦の技術を教育していた。ペタ設立の決定後、この青年たちをボゴールに設立された幹部養成学校(義勇軍錬成隊)に所属させて各種訓練を実施した。そして、この学校の卒業生が中心となって、彼らのそれぞれの故郷で、約500名規模のペタの大団を結成させた。この大団の下に、中団、小団、分団が組織された。 こうした大団は、1943年末には35大団、1944年8月には20大団、同年11月にはさらに11大団が追加編成された。終戦時には、66大団、約3万6千人の規模となっていた。このなかには、蘭印軍(オランダ東インド軍)軍曹の前歴を隠したまま入隊して小団長に任命されたスハルト(後のインドネシア第2代大統領)も居た。スハルトはその後、中団長に昇進し、インドネシア人士官らの訓練にもあたった。 こうして設立された民族軍ではあっても、占領期間中は日本軍の指揮下に置かれ、軍事訓練等は日本軍の指導の下に実施された。訓練はすべて日本軍の歩兵操典を基準にしておこなわれた。訓練はきびしく、訓練兵のなかには病気になったり死亡したりする例もあった。軍事訓練とともに重視されたのは精神教育であり、そこでは日本軍の軍人勅諭が用いられ、祖国のための自己犠牲の尊さ、闘う勇気などについて、インドネシア人青年は徹底的に教え込まれた。 この青年道場の体験者でのちにインドネシア陸軍情報部長を務めたズルキフリ・ルビスは、当時について以下のように述懐している。 ここ(青年道場)に入る資格は、第一が愛国心、第二が宗教(イスラム教)心の篤い男で、第三が中学校を卒業したインドネシア人であることだった。50人の青年が選抜されて、この道場に入った。…一年後、ボゴールに創設されたPETAの「助教」に任命された。われわれは「自覚せよ。勇敢であれ。忠誠心をもて。訓練せよ」という厳しい教育を受けたが、「独立の時来たる」という強い自覚を持って、一生懸命がんばった。…日本軍政の特徴は、魂を持ってきてくれたことです。われわれと苦楽を共にし、農作業や各種技術の初歩を教えてくれ、軍事訓練まで施してくれました。 — ズルキフリ・ルビス元陸軍情報部長
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