素描とメダル製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 05:09 UTC 版)
彼の素描は15世紀においては宝石のように高値で取り引きされ、この時代のエレガントな服装(人目を引く帽子など)の指標であった。同時代の他の画家の場合と異なり、彼の素描は完成画のための習作ではなく、それ自体一つの芸術作品であった。彼は素描集をいくつか編集した。それらは優雅な衣装や、自然主義的技法で詩的に描かれた動植物などを細部にわたり正確に描写したものであった。 1435年以降、ピサネロは肖像とメダル制作にますます関心をもつようになった。彼はフェラーラ公レオネッロ・デステに引き会わされた。『公女の肖像 (ピサネッロ)|公女の肖像』はこの時期の作品である。王妃は多くの蝶とコロンバイン(キンポウゲ科の草)を背景に横顔を見せている。彼女の周囲にはばたく蝶は死の象徴と見なされている。モデルが誰であるかは特定されておらず、マルゲリータ・ゴンサーガ・デステ、ジネヴラ・デステまたはチェチリア・ゴンザーガといわれている。 1438年、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスはフィレンツェ公会議に参加した。この機会にピサネロは皇帝を記念するメダルを制作した。また皇帝と従者たちの肖像の素描(ルーヴル美術館蔵)をいくつか制作した。このことはピサネロがエステ家邸宅のためのフレスコか板絵の制作依頼を受けていたことを示唆する。 このように、ピサネロは記念メダル、美術メダルの創始者となり、生前にはむしろメダル作家として最もよく知られていた。彼のメダルは後の世代によりしばしば模倣されており、ピサネロの様式から離れるとともにメダル芸術も衰退に向かった。ピサネロ以前には、メダルは通常の貨幣と同じように鋳造されていた。これに対し、ピサネロはブロンズの浮き彫り像のようにメダルを鋳造し、画家と鋳型製造者の仕事ぶりがくっきりと浮かび上がるようにした。彼はさらに自分の手掛けたメダルにOpus Pisani pictoris(画家ピサーノの作品)というサインを入れた。彼の見解ではメダルの肖像と絵画の肖像は同価値だったのである。彼はまたメダルの裏面に寓意の画像を入れた。たとえばチェチリア・ゴンザーガのメダルには一角獣が表され、公女の高貴な人格を示している。
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