第2国際空港建設計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
「池田勇人内閣の政策」の記事における「第2国際空港建設計画」の解説
1960年代初頭、経済成長と所得水準の向上の後押しを受けて日本の航空産業は著しい発展を見せており、旅客需要の伸びと航空機の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に東京国際空港(羽田空港)の能力が限界に達すると予想された。 しかし、羽田空港は以下の理由で拡張性が見込めなかったため、首都圏第二空港の開設が急務とされた。 西側に隣接する大田区地域が建物の密集地であるうえ既に航空機騒音問題が発生しており、南側は多摩川の河口に面しているため、拡張できるのは東の東京湾沖合しかないこと 当時東京港には船舶が殺到してパンク状態となっており、沖合いへの拡張は海上輸送に著しい支障をきたすこと 当時の港湾土木技術では水深20メートルにある海床の埋め立てが困難とされたこと 在日米軍が管理している東京西部空域他、軍用飛行場群が有する空域との兼ね合いがあること そこで池田内閣は、来るべき国際化に伴う航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手し、1962年11月16日に第2国際空港建設方針を閣議決定する。 しかし閣議決定後、上述の池田の政権運営の中で対立を深めていた自民党内の官僚派と党人派が建設地を巡って衝突することとなり、特に池田から建設候補地の検討を指示された河野一郎が航空行政を所管する運輸省に強硬に反対した。この問題について池田は積極的なイニシアチブをとらず、候補地選定は後任の佐藤内閣に持ち越された。 このような計画の迷走が、運輸省の拙速な空港建設とそれに伴う地元の反発、ひいては三里塚闘争を招くこととなる。 詳細は「成田空港問題」を参照
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