第二次大戦中及びオリジナル・シックス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 08:19 UTC 版)
「ボストン・ブルーインズ」の記事における「第二次大戦中及びオリジナル・シックス時代」の解説
不幸にして、第二次世界大戦が勃発すると、ブルーインズの戦力は、他のライバルチームよりもさらに衰退することとなった。ブリムセク、シュミット、デュマート、バウアーらは、1941年のシーズンを最後にすべて兵役に就き、選手として最も油の乗った時期を戦争によって失った。コーリーはクラッパーやバシャー・ジャクソン(Busher Jackson)らベテラン選手に支えられて、残されたチームのスターとなった。1943-1944シーズンには、NHL 自体が6チーム(後の時代には、誤って「オリジナル・シックス」チームと呼称される。)まで絞り込まれ、有能な選手の数が極端に減少して、ブルーインズのハーブ・カイン (Herb Cain) 選手が当時のNHL新記録となるシーズン82ゴールを上げるなど、シーズン全体が大味なものとなった。この年、ブルーインズはプレイオフ進出を果せず、カインはこの2年後チームを去った。 1945-1946シーズン、チームは復調を遂げ、新コーチ、クラッパーの指揮下でこの後連続4年プレイオフに進出した。しかし、不幸なことに復員した Brimsek に往時の力を望むすべなく、1946年以後3年連続で第1ラウンドで敗退することとなり、コーチ、クラッパーはチームから更迭される形となった。また、若手有力選手のドン・ガリンジャー(Don Gallinger)が私生活におけるギャンブルの問題で追放され、残された若手有望株がジョニー・ピアソン(Johnny Peirson:1970年代にチームのテレビ解説者となる。)のみになってしまうなど暗雲も漂い始めた。 それから後のブルーインズは、例えば、スタンレーカップ決勝に進出した1952-1953、1956-1957、1957-1958(いずれもモントリオール・カナディアンズに敗退)などいくらかのシーズンでは光彩を放ったものの、1941年以降およそ四半世紀に渡ってスタンレー・カップの優勝から遠ざかることとなるのである。 また、カナディアンズ、トロント・メープルリーフス、デトロイト・レッドウィングスの3強豪がリーグを支配していた1947年から1967年までの間、ブルーインズはたった4期しか上手く行ったといえるシーズンはなかった。1960年から1967年まで8期連続で、プレイオフ進出を逃した。しかし、ファンの支援は高く、長年プロバスケットボールの世界チャンピオンとして君臨したボストン・セルティックスの人気をも凌ぐほどであったともいわれている。 この期間、ボストン・ブルーインズの若手選手養成制度は、他の5チームと比較して余裕がなく、不十分なものであったともいわれる。ボストン・ブルーインズは補強のため他チームにプロテクトされていない選手を探し、1958-1959シーズンには、NHL初の黒人選手ウィリー・オリー(Willie O'Ree)と契約を結んだ。また、1962-1963シーズンには、1960年スコーバレー冬季オリンピックで金メダルを獲得したアメリカ合衆国ナショナルホッケーチームからトミー・ウィリアムス (Tommy Williams) を獲得した(ウィリアムスは、当時NHL唯一のアメリカ人選手であった。)。
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