究極なるものとは? わかりやすく解説

究極なるもの

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:55 UTC 版)

パウル・ティリッヒ」の記事における「究極なるもの」の解説

ティリッヒ宗教定義して究極関わりという。つまり、キリスト教限定することなく、人が何かに究極的に関わり、それによって根本から支えられているとき、そのようなものが宗教呼ばれるのだ。このような宗教観は一般的には宗教的考えられる人々をも包み込んで宗教人間にとって決定的なのであるということを示す。教会に通うかとか、お祈りをするかとかいったことをしない人間も、その存在支える何かを求め限り宗教的なのであり、その意味で人が生きる限り宗教はなくなることはない。宗教そのようなのであるならば、その関わりとは絶対的な無制約者体験することでなくてはならない。しかし制約された、本来究極的でないものを究極的とすることから人は挫折し絶望陥る。それでは真に究極的な関心を払うべきものとはなにか。それは「私たち存在、あるいは非存在決定するもの」だとティリッヒ述べる。存在するかしないか、生きるか死ぬかということこそまさに存在する者、生きるものにとって究極問題である。ならばそれを決定するものとはあれこれ存在うちのひとではなく存在と非存在を超えて存在根拠となるようなものだ。だから神の神とは存在存在たらしめる存在の力、あるいは存在根底存在それ自体だとティリッヒは言う。 天上住まって人を見下ろす人格神英語版)というような考え退けられる。そのような神は人に対して別のところに神がいるという図式から生まれたものだが、神はわれらの内にて働く存在の力だという見方からすれば対象としての神は想像過ぎず、それを崇めることは偶像崇拝である。神について語ることは象徴通してのみ可能である。有限なる我々は無限なるものを直接表現することはできない。したがって宗教的言説象徴として、それ自体超えつつ、他の何ものかを指し示すものとして理解されねばならない。では、キリスト教ティリッヒにおいてどのように捉えられるだろうか自律のみに拠るならば人間存在根底から疎外されるというが、それは人間有限だからだ。人が自由な決断をすると、現にあるもの(実存)は本来あるべきもの(本質)から転落する。つまり、有限な存在は何かを決めてしまえば他の可能性限定してしまうので、本質一致できないのだ。実存個別普遍流動形式、自由と運命緊張の上に立たされ、根源的な不安に脅かされる本質実存への転落聖書ではアダム堕罪として象徴的に語られている。人間の神からの離反、すなわち罪とは疎外他ならないこのような実存悲劇克服するのがキリストだとティリッヒ述べる。本質的神人性がキリストとして現れ実存のうちにありながら実存ひきうけて本質との断絶克服したということ信じることは、キリスト本質実存架け橋となった新たなる存在、新存在として受け容れることだ。新存在分裂紛争自滅無意味絶望克服し和解再結合創造、意味、希望もたらすキリスト有限と無限、制約者と無制約者仲保者である。彼は十字架かかって自己否定し、他の存在同じように「否」の上立った。しかし復活により死をも克服し、新存在として生まれたのである

※この「究極なるもの」の解説は、「パウル・ティリッヒ」の解説の一部です。
「究極なるもの」を含む「パウル・ティリッヒ」の記事については、「パウル・ティリッヒ」の概要を参照ください。

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