科学者としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 00:36 UTC 版)
「ジョン・デスモンド・バナール」の記事における「科学者としてのキャリア」の解説
卒業後、バナールは、ロンドンにある王立協会のファラデー研究所でヘンリー・ブラッグの下で研究を行った。1924年、彼はグラファイトの構造を決定し、銅の結晶構造の研究も行った。彼の強みは、実験法と同時にその分析力で、彼の結晶構造決定に対する数学的、実践的手法は広く研究され、彼はX線測角器も開発した。 1927年、ケンブリッジ大学の最初の結晶構造学の講師に指名され、1934年にはキャヴェンディッシュ研究所の副所長となった。ここで彼は、結晶学の技術の有機化合物への応用を始め、1929年のエストロンとコレステロールを含むステロール化合物を皮切りに、ステロール化学の考え方を大きく変えた。ケンブリッジ大学で、彼はビタミンB1(1933年)、ペプシン(1934年)、ビタミンD2(1935年)、ステロール(1936年)、タバコモザイクウイルス(1937年)を分析した。また液体の水の構造も研究し、1933年に分子の形がブーメラン状であることを示した。ドロシー・ホジキンが研究を開始したのは、ケンブリッジ大学のバナールの研究室においてであった。両者は1934年に水和したタンパク質結晶の最初のX線写真を撮影し、世界で初めて生体組織の分子構造を観察した。1936年には、マックス・ペルーツが学生としてウィーンから到着し、生涯の研究課題となるヘモグロビンの研究を開始した。 バナールは、彼を嫌っていたアーネスト・ラザフォードの在任中は、エマニュエル・カレッジにフェローシップを断わられていたが、パトリック・ブラケットによって第1ランクに引き上げられていたロンドン大学バークベック・カレッジの物理学教授に就任した。第二次世界大戦が終わると、彼はバークベック校に、15人の研究者を擁する分子生物学研究所を設立した。ここでアーロン・クルーグはリボヌクレアーゼの研究を行い、アンドリュー・ブースは最も初期のコンピュータの1つを開発した。キングズ・カレッジ・ロンドンから移ってきたロザリンド・フランクリンはウイルスのパイオニア的研究を行った。 また、バナールは政治的にはイギリス共産党党員であり、ルイセンコ論争でソ連側にたったことは波紋を呼んだ。バナールの左翼活動は周囲に影響を与え、エピジェネティクスの創設者で知られる友人コンラード・H・ワディントンも1941年の著作でマルクス主義は科学と擁護した。
※この「科学者としてのキャリア」の解説は、「ジョン・デスモンド・バナール」の解説の一部です。
「科学者としてのキャリア」を含む「ジョン・デスモンド・バナール」の記事については、「ジョン・デスモンド・バナール」の概要を参照ください。
- 科学者としてのキャリアのページへのリンク