科学者としての経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/14 04:51 UTC 版)
「フィアメッタ・ウィルソン」の記事における「科学者としての経歴」の解説
経歴の全期間を通してウィルソンは極めて勤勉であった。流星をひとめでも見ようと、それだけのために6時間も曇り空を見るというような観察を行っていた。ウィルソンはイギリス天文学協会に入り、A・グレイス・クックと流星部門のディレクター代理として活動した。会員として、ウィルソンはオーロラ、黄道光、彗星、流星を観察してデータを刊行した。研究をすすめ、自分の情報の正確性を担保するため、樹木に邪魔されずに宇宙を観察できるよう、庭に木のデッキを設置した。このデッキをウィルソン自身は「止まり木」(perch)と呼んでいた。ウィルソンは観察の途中で非常に苦労をしたと言われている。第一次世界大戦の際には、研究のために懐中電灯を使用しているところを見られ、ドイツのスパイと誤解されて、巡査から逮捕すると脅されたこともある。ツェッペリンが近所を爆撃している時すらも観察を続けていたという。1910年から1920年の間に約1万個の流星を観察し、そのうち650個については経路を正確に計算した。1913年にヴェストファール彗星が地球を通過するところを発見した。多くの論文を刊行した後、1916年1月14日に王立天文学会のフェローに選ばれた。フィアメッタは初めてこの学会のフェローに選ばれた4人の女性のうちのひとりであり、この時に友人のA・グレイス・クックも一緒に会員になっている。フィアメッタはフランス天文学協会とアントウェルペン天文学協会の会員でもあった。1920年7月にフィアメッタはハーバード・カレッジのエドワード・C・ピッカリングフェローに任命されたが、同月、任命されたことを知らないまま亡くなった。
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