私掠船の掃討、1863–1864年
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「ワイオミング (戦闘スループ)」の記事における「私掠船の掃討、1863–1864年」の解説
ワイオミングのフィラデルフィアへの帰還は、アラバマが引き続き極東で行動していたため、お預けとなった。ワイオミングは修理を完了し、オランダ領東インドへ向かい、続いて、クリスマス島が南軍艦艇の補給基地として使われていないかを調査した。島は無人であり、補給基地として使われた形跡は発見されなかった。ワイオミングはジャワ島のアンジャー(Anjer)に戻ったが、そこでマクドゥガルは11月10日、すなわちワイオミングがクリスマス島に向けて出港した翌日に、アラバマがスンダ海峡を抜けたという驚くべき事実を知った。その日の正午には、アラバマとワイオミングはたったの25マイルしか離れていなかったことになる。 マクドゥガルのバタビアからの11月22日報告は、その後東インド水域のアラバマが潜んでいそうな場所は全て捜索したと述べている。ワイオミングのボイラーは高圧が出せなくなっていたが、マクドゥガルはアラバマを捕捉するためにあらゆる努力を行うと約束した。 ワイオミングはアラバマの捜索にシンガポールに向かったが、そこでも何も発見できず、スンダ海峡近くのリオに向かった。さらに北上し、クリスマスイブにはフィリピン・ルソン島のカヴィテに停泊した。そこでスペイン海軍の好意によりボイラーの修理と石炭の搭載を行い、香港さらに中国の黄埔に航海した。 ワイオミングは1864年2月も、神出鬼没のアラバマの捜索にあたった。米国の権益保護のため福州に向かい、そこからさらに香港を経由して東インドに航海した。バタビアに到着したとき、マクドゥガルはボイラーの故障は深刻であり、米国に戻って修理するほかないと判断した。ジャワ島のアンジャー、喜望峰、セントヘレナ、セント・トーマス島を経由する3ヶ月の航海の後、1864年7月13日、ワイオミングはフィラデルフィア海軍工廠に到着した。初の任務から地球を一周して戻ってきたことになる。 しかしながら、ワイオミングに休暇は許されなかった。東海岸における、南軍の砲艦フロリダ(CSS Florida)の行動が、疲れ果てたワイオミングに別の任務を与えた。フィラデルフィア海軍工廠の司令官であるコーネリアス・ストリブリング(Cornelius Stribling)代将は、到着したばかりのワイオミングにフロリダ捜索命令を告げた。ストリブリングはマクドゥガルに対し、「長期間の航海と重要な任務を果たしてきたばかりの君と乗員にこの命令を告げなければならないのは残念だが、南軍の私掠船を拿捕することの重要性に鑑み、君とその部下が喜んで任務を遂行することを期待する。」と訓示した。 ワイオミングは徹底的な修理無しに、再び海に出るのは不可能であった。長期間米国の海軍工廠での修理を受けていなかったため、機械はガタガタであった。5日間の間、新たな任務のための努力を行ったが、ボイラーからの蒸気漏れのため、7月19日にはフィラデルフィアに戻らざるをえなかった。結局完全なオーバーホールのため、7月23日に任務を解かれた。
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