私掠船船長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:47 UTC 版)
「マーティン・フロビッシャー」の記事における「私掠船船長」の解説
フロビッシャーはヨークシャー西部のノーマントン(Normanton)にあった14世紀以来の旧家で、父バーナード・フロビッシャーとナイトの家系出身の母のもとに生まれた。父が早くに亡くなったため、母はロンドンに住む弟のサー・ジョン・ヨークのもとに息子を送り教育させた。フロビッシャーは学問はほとんどしなかったが、勇敢さを叔父ヨークからも認められていた。1550年、ヨークはフロビッシャーを船乗りとして育てることとし、1553年にはヨークが出資するギニアへの航海にフロビッシャーを送り出し、フロビッシャーは生還した。翌1554年にもギニアに交易の航海に出たが、彼はここでポルトガル人に捕まり数カ月間囚えられている。1559年には結婚している。 フロビッシャーはギニアからの帰国後、私掠船の世界に身を投じた。やがて数年後にはイングランドでも最も大胆で不届きな海賊の一人として知られるようになる。1564年の海事裁判所の記録では、「彼の名はスペインのフェリペ王にも知られており、ジョン・ホーキンスと同じくらい憎まれている」とある。やがて彼はイングランド女王エリザベス1世の宮廷に接近し、女王のための任務につくようになる。1571年にはアイリッシュ海で合法的な警備活動を任され、フランス船やポルトガル船を襲う一方、女王が進めていたアイルランド征服の軍事活動を支援した。
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