祭祀・富士山支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:03 UTC 版)
戦国時代における富士信忠の大宮城開城から武田氏による武力解除を経て、富士氏は神職のみの姿として統一されていた。近世に入ると富士氏は富士山を管理・支配する立場としても確立されていた。例えば徳川忠長が駿府藩主であった頃、「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」といった文面の通達が忠長の家臣である朝倉宣正・鳥居成次から地方奉行に出されている。このように富士山本宮浅間大社が富士山頂の支配・管理を行なっており、その代表格である富士大宮司の支配の地として富士山麓周辺の地から認識されていた。 他に須走村の書付に、三か条の1つとして「富士山登道行合より八葉内、大宮町大宮司殿、宮内殿、民部殿、宝当院と申而四人之衆御支配二御座候」とある。これは行合(八合目)以上は浅間大社の神職(富士大宮司・公文富士氏・別当)および須走浅間神社の神職(民部殿)が支配する地という認識を示していることを意味し、このように富士氏が山頂においての権限を保持していた。 富士氏は富士山に関わる祭祀を司る身でもあり、例えば宝永4年(1707年)12月8日に富士氏は富士山祈祷を行っている。これは江戸幕府により発令されたものであった。富士氏の祭祀は本宮だけに留まらず富士上方・富士下方(静岡県富士市)の広くに及んでいた。本宮の東北に位置する山宮浅間神社でも祭祀が執り行われ、祭壇左側には富士大宮司席・公文富士氏・案主富士氏席が位置していた。 また慶安3年(1650年)「富士本宮年中祭礼之次第」に「垢離之後富士丘参詣大宮司殿庶子衆御祓役人正鎰取」とあり、『駿河志料』の富士塚の頁には「大宮司社人富士塚に参詣し」とある。富士下方に位置する富士丘に富士大宮司以下社人が参詣する記録であるが、この富士丘は富士市鈴川の富士塚に比定されており、また駿河志料の方は富士塚と記している。これら史料にあるように、祭祀のために駿河国富士郡各地へ赴いていた。 代々大宮司職は富士家により継がれていたが、明治3年以降宮司は内務省から直接任命される官選となり、以後富士氏が大宮司を務めることはなくなった。
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