神殿の丘北部にあったとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 17:18 UTC 版)
「アクラ (要塞)」の記事における「神殿の丘北部にあったとする説」の解説
アクラはエルサレムで最初のヘレニズム時代の要塞ではなかった。文献によれば、初期の要塞であるプトレマイオス・バリスは神殿の境内を見下ろす場所を占有していた。バリスの正確な位置はまだ議論されているが、このことから、アクラは神殿の丘北部の、後にアントニア要塞(英語版)に占有される土地にあったのではないかとする説が一般的に受け入れられている。バリスは紀元前2世紀末期にアンティオコス3世によって陥落させられ、マカバイ戦争では全ての戦闘で使用されなかった。アクラの建設が非常に短期間で行われたとする逸話があるにも関わらず、長期間の包囲に堪えるぐらい非常に優れたものであった。これらの要因は、バリス自体が「アクラ」と呼ばれていたという文献も相まって、バリスとアクラは同じ構造だったのではないかと推測されていた。『マカバイ記1』とヨセフスの著書にはアクラは新しい構造として書かれているが、そうではなかった可能性がある。『ユダヤ古代誌』12巻253ページは、城塞に「不信心で邪悪な」者が「宿る」というよりも、アクラは戦前から残っており、マケドニア軍だけが新しいという意味として、「不信心で邪悪な」者が「残った」という意味を与えるように翻訳された可能性がある。 コーエン・デコスター(英語版)は、ヨセフスはアントニア要塞とヘロデ朝の宮殿という2つの象徴が存在した1世紀のエルサレムに精通していたと思われる聴衆に向けて「下町にある要塞」と書いたのではないかと提唱した。ヨセフスが生きていたローマ時代のエルサレムは既に西部の高い丘に広がっていたため、「下部地域の要塞」は神殿北部に建つアントニア要塞を含めた、ティロポエオン渓谷の東に位置する全てのものとして言及してそびえ、エルサレムを支配した可能性がある。デコスターの見解では、この場所はヨセフスがアクラについて書いたときに言及しておかなければならなかった場所であるとしている。 この説に異議を唱える者は、この場所にアクラがあったことを支持する文献は存在せず、この説はアクラがエルサレムの人口の中心から遠ざけることになると訴えている。前後に建てられた要塞とは異なり、外部からの脅威から街を防御するのではなく、むしろエルサレムのユダヤ人地区を監視する役割は、提唱された北部では互換性がなくなるためこの説は否定された。
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