神木隊士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:48 UTC 版)
慶応元年(1865年)、幕府の第二次長州征討に従軍し、行軍する藩士らの様子を「長州征討行軍図」で色彩豊かに描いている。慶応3年(1867年)橋本家の家督を相続した。同年5月6日、国周が日本橋音羽町に建てた新宅開きの日に、酔った河鍋暁斎が国周の顔に墨を塗りたくって大騒ぎとなった。この時、怒った周延が刀を抜いて暁斎に切ってしまうぞと飛びかかり、暁斎は垣根を破って逃げ、中橋の紅葉川の跡に落ちてドブネズミのようになったという。錦絵では慶応3年正月刊の豊原国周の「肩入人気くらべ」(大判3枚続)中に人物を補筆したのが早いものであろう。 幕末の動乱期には高田藩江戸詰藩士が結成した神木隊に属し、慶応4年(1868年)5月上野彰義隊に加わる。8月朝日丸で品川沖を脱走、すぐに長鯨丸に乗り換え、11月北海道の福島に上陸、陸路で箱館を目指し、翌1月5日亀田村に到着。榎本武揚麾下の滝川具綏指揮第一大隊四番小隊のもとで官軍と戦ったが、3月の宮古湾海戦において回天丸に乗り込んで戦い重傷を負う。戊辰戦争終結後に降服、未だ傷が癒えていなかったため鳳凰丸で明治2年(1869年)8月に東京へ送られ、高田藩預かりとなった。故郷の高田で兵部省よりの禁錮50日、高田藩から家禄半知または降格、あるいは隠居廃人の処分を受けた。この時、高田の絵師・青木昆山らと交流を深めている。
※この「神木隊士として」の解説は、「楊洲周延」の解説の一部です。
「神木隊士として」を含む「楊洲周延」の記事については、「楊洲周延」の概要を参照ください。
- 神木隊士としてのページへのリンク