神戸線時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/26 18:35 UTC 版)
本形式は神戸線開業時の主力車として、開業当初は単車で運用された。51・63形は1922年の自動連結器化により増解結が容易になったことから、宝塚線において同年から梅田~池田間の区間列車で2両連結運転を開始、宝塚線に新製投入されていた63 - 66の4両も当時の宝塚線の主力であった1形とともに2両編成の運用に充当された。2両編成の運行は1923年3月から宝塚線全線に拡大、神戸線においても1924年3月から2両編成の運行が開始された。時期は不明であるが51・63形と75・81形の混結試験を行ったが、歯車比が異なることから衝動が発生してしまい、結果として51・63形と75・81形は別々のグループとして運用されることとなった。 1926年7月の大阪市内高架複々線の完成に伴い、併用軌道区間の解消によりフェンダーを撤去した。同時に、神戸線に600形が就役を開始したことから、51形及び300形が全車宝塚線に転出、残された67以降の車両はドア部分にステップを取り付けた。また、300形はこの時から開始された宝塚線の3両編成の中間車として、同時に神戸線から転入した700形700 - 705とともに両端に51 - 66を連結して3両編成の運行に充当された。これに先立ち、同年5月には500形以降の各形式に合わせる形で、301・302から300・301と末尾0番から始まる形に改番されている。 その後1930年に900形が就役を開始したことから余剰となった63形が全車宝塚線に転出、神戸線には高速仕様の75・81形12両が残るだけとなった。75形も800形の一部車両が電装改造を受けたことから余剰となり1931年に宝塚線に転出、残る81形も1932年10月より宝塚線で急行運転が開始されるにあたり、高速走行特性の優れた75・81形で運用車両を統一する必要があったことから全車宝塚線に転出した。この段階で神戸線(本線)の営業用車両はライバルの阪神に先んじて全車鋼製車となった。
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