硯友社と新体詩・言文一致運動
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「山田美妙」の記事における「硯友社と新体詩・言文一致運動」の解説
予備門在学中の1885年(明治18年)に友人の尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し、雑誌『我楽多文庫』を編集・刊行し、第1、2集に曲亭馬琴風の処女作「竪琴草紙」を発表。1886年から同誌に連載した「嘲戒小説天狗」は、言文一致体で書かれた小説として先駆的なものであった。また1882年の『新体詩抄』以来の新体詩への意気込みで、縁山散史こと尾崎紅葉、延春亭主人こと丸岡九華とともに『新体詞選』を刊行。同年第一高等中学校(大学予備門改称)退学。1887年(明治20年)に読売新聞に「武蔵野」を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となる。同年婦人雑誌『以良都女』(成美社)創刊。1888年には短篇集『夏木立』を刊行、小説雑誌『都の花』(金港堂)を主宰、1890年まで務め、20歳にして坪内逍遥に匹敵する名声を得た。硯友社とは疎遠になり自然脱退。 徳富蘇峰らが1888年に組織した「文学会」にも参加し、1889年に『国民之友』誌で初めて小説を掲載した特別付録に、逍遥と並んで蘇峰の依頼を受けて、「蝴蝶」を執筆した。「蝴蝶」は、挿絵に初めて裸体が登場した作品で(渡辺省亭筆)、発売禁止となるなど物議をかもした。 1889年「日本俗語文法論」を『国民之友』に連載した。1890年改進新聞社入社。1891-92年頃は国民新聞紙上に小説、詩などを発表、その後は『文芸倶楽部』『世界の日本』などに作品を発表。1894年頃に浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『万朝報』、『毎日新聞』などで指弾され、坪内逍遥も『早稲田文学』誌上で批判した。1895年に発表した「阿千代」は久しぶりに好評だったが、その後『以良都女』の投稿欄出身で弟子の女流作家田澤稲舟と結婚。1896年稲舟との合作「峯の残月」を『文芸倶楽部』に発表。稲舟は美妙の祖母と不仲のため、3月に結婚を解消して鶴岡に帰郷。4月に西戸カネと結婚。稲舟が自殺未遂の後9月に病死したが、新聞に自殺と報じられて美妙は非難を蒙り、文壇から遠ざけられるようになった。
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