研究発掘史
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1985年まで、教塚古墳は東西約20メートル、南北約13メートルの楕円様の形で、水田の中に孤立した塚として存在し、埴輪片が採集されていた。墳丘の上は平らで畑地として利用していた。この時点で上面と周囲がかなり削られていたと考えられる。 1985年4月、宅地にするため古墳の周りに盛り土することで、古墳が埋もれてしまった。これを古墳の破壊も同然ととらえた仙台市教育委員会は、8月に墳丘部をまっすぐ切る形で発掘調査を実施した。円筒または朝顔形の埴輪片多数と、須恵器と弥生土器の小片が1点ずつ見つかった。
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研究・発掘史
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石舞台古墳が文献に記されるのは、江戸時代になってからである。延宝9年(1681年)の林宗甫『大和名所記』(和州旧跡幽考)に、石太屋という陵があると記しており、陵とは前後の文脈から天武天皇の陵と了解できる。「石太屋」(いしふとや)は大きな石で造った屋の意味で、これが「石舞台」と転訛したのではないかとの意見がある。嘉永元年(1848年)の『西国三十三所名所図会』にも、石舞台を天武天皇の殯のあとという記述があるが、現在では天武天皇の墓とする説を支持する学者はいない。 地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている。 明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後これが有力になった。 1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。これより前には前方後円墳ではないかという説もあったが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明した。発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことであった。 1954年(昭和29年)から1959年(昭和34年)にかけて古墳の復元整備事業が行われた。この時、外側の堀を掘るために上を通っていた県道が迂回させられた。 巨石が組み上げられた基本的な外観は江戸時代から変わっていないが、石室と羨道部はかなり崩れていた。現在は修復され、内部が公開されているので玄室内に入ることも可能である。
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