石鼓の保存と破損
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:11 UTC 版)
石鼓は伝世の石碑ではなく出土品であるため、出土した時から破損が見られた。一方で宣王の碑と流布されたことから珍重される時期もあり、採拓も頻繁に行われている。また石そのものは1トン前後と軽量なため略奪されたこともあり、保存と破壊を繰り返してきた。 出土直後は雨ざらしの状態で、保存措置がとられていなかった。韋応物の「石鼓歌」にも「風雨缺訛苔蘚渋(風雨に削られ苔に蒸す)」の描写がある。韓愈は大学に移転保存するよう進言したが、実現しなかった。 西暦800年頃、鄭余慶が鳳翔孔子廟に移転させ、ようやく保存が始まる。五代十国時代に至る100年ほど、この地で保存された。 宋朝が成立し、司馬池(司馬光の父)が鳳翔の知事に就任し、散逸した石鼓文を集め、府学に移転保存した。しかし移転時に1基が行方不明になった。 消息不明だった1基(詩文冒頭から「乍原鼓」と呼ばれる)が1052年に民家で発見された。しかし上半分を切り捨てられ、中身をえぐられて石臼になっており、詩文の上半分が完全に失われた。以後、字数計上などの保護策が厳重になる。欧陽脩の調査では465字が認められた。 芸術に傾倒した徽宗の勅命により、石鼓はすべて開封に運ばれた。採拓による磨耗を防ぐことと宝物の品格を持たせるため、刻字すべてに金象嵌を施した。当初は大学、のちに保和殿に保管した。 保和殿の宝物として保存し、金象嵌を施したことが仇となり、靖康の変の際に略奪された。金象嵌をえぐり取られたため、残字数が最も少なかった石鼓(「馬薦鼓」と称される)の文字はすべて破壊された。 元朝が成立すると国子監に保存し、明朝も同様に扱った。元の吾丘衍は477字、潘迪は386字を読み取っているが、以後も徐々に風化が進んでいる。 清朝も同様に保護したが、乾隆帝はさらに採拓用のレプリカを作り、石鼓を完全保護する策を取った。 民国でも故宮に保管したが、満州事変勃発に合わせて上海に退避させた。1936年に南京に退避したが、日中戦争とともに宝鶏・漢中・成都・峨眉へと中国奥地に移転した。 1947年に南京に移転したものの、国共内戦が勃発した。国民党は石鼓の台北輸送を断念して逃亡し、石鼓は無傷で共産党の手に渡った。そこで北京故宮に帰り、現在に至る。 このように破損を繰り返してきたため、故宮に展示された石鼓の刻字は不完全で、失われた字は宋時代に採られた拓本で見ることができる。乍原鼓の上半分が破壊される前の唐拓は発見されていない。
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