石造への改築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 16:35 UTC 版)
仮設セノタフを恒久的な構造物に改築する事を提案したのは、一般市民や全国紙からの提案であった。パレードの4日後、スタッフォード選出の庶民院議員であり、戦争を戦った陸軍将校であり、パリ講和会議のイギリス代表団の一員であったウィリアム・オームスビー=ゴア(英語版)は、庶民院でセノタフについてモンドに質問し、恒久的な代替案が計画されているかどうかを尋ねた。オームスビー=ゴアは他の議員からの支持を背景にしていた。モンドは決定権は内閣にあるとしながらも、庶民院の支持を伝える事を約束した。翌週、タイムズ紙は恒久的な代替案を求める社説を掲載した(ただし、元の位置ではセノタフに車両が衝突する危険性があるとして、近くのホース・ガーズ・パレードに建設する事を提案した)。ロンドンと全国紙への複数の投書が寄せられた。内閣はラッチェンスの意見を求めた。ラッチェンスは元の位置が「フォッシュと連合軍の敬礼によって象徴性を与えられた」とし、「他の場所ではこのような象徴性を与える事はないだろう」とした。 内閣は国民の圧力に屈し、7月30日の閣議で石造りで元の位置に再建築することを承認した。 それでもセノタフの位置についての懸念は残った。タイムズの別の社説では、交通から離れたパーラメント・スクエアに設置する事を提案しており、その位置は地方自治体によって支持されていた。この問題は再び庶民院で提起され、オームスビー=ゴアはセノタフを元の位置に再建することを求める声を先導し、この選択肢が国民に最も人気がある事を確信していると絶賛した。最終的には敷地への反対運動は鎮静化し、ホーランド、ハネン&キュービッツ(英語版)と建設契約が結ばれ、1920年5月に着工した。 モンドはラッチェンスに永久セノタフの工事が始まる前、デザインを修正する機会を与えた。建築家は11月1日に修正案を提出し、同日に承認された。彼は本物の月桂樹の花輪を石の彫刻に置き換え、エンタシス(ギリシャのパルテノン神殿を彷彿とさせる微妙な曲率)を加え、垂直面が内側に向かって先細りになり、水平面が円の弧を描くようにした。 ラッチェンスはモンドに次の様な手紙を書いた: 微妙な曲率のラインを設定する事で要求される条件を満たすために、若干の変更を加えた。その違いはほとんどないが、長方形の石の塊にはない彫刻のような質感を与えている。 ラッチェンスは以前にもほとんどの大規模なIWGC墓地に見られる追憶の石碑(英語版)にエンタシスを用いていたが、これは問題なく受け入れられた。ラッチェンスが提案した唯一の重要な変更点は、布がすぐに摩耗し乱雑に見える事の恐れから、仮設セノタフの絹旗の代わりに塗装された石を使用する事であった。この提案はモンドに支持され、彫刻家フランシス・ダーウェント・ウッド(英語版)に援助を求めて従事したが、変更は内閣によって拒否された。1920年8月のレディー・サックヴィルの日記には、建築家がこの変更について不満を述べた事が記録されているが、イギリス国立公文書館の文書によると、彼は6ヶ月前からこの変更に気づいていた事が示唆されている。
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