石川家の時代
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天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、秀吉の命令で家康が関東に移封されると、秀政も家康に従って関東に移り、下総古河藩3万石の藩主となった。 松本藩の藩祖は、徳川家康に仕えた「三河の旗頭」の一人・石川数正である。数正は家康が今川義元の人質だった頃から仕えていた最古参の家臣で、永禄5年(1562年)の織田信長と家康との同盟締結に大きな功を挙げた人物である。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年)11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。 秀吉は数正を家臣として迎え、和泉に8万石を与えた。天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、その後を受けて信濃松本10万石に加増移封された。数正が文禄2年(1593年)に死去した後、その遺領は嫡男・石川康長が8万石(石川氏の家督も同時に継いでいる)、次男の石川康勝が1万5000石、3男の石川康次が5000石とそれぞれ分割して継いだ。数正・康長父子は松本城を近世城郭に改め、城下町の建設に務めた。だが数正没後、跡を継いだ康長はその築城のために過酷な賦役を民衆に課したと伝わっている。 康長兄弟は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、戦後に家康から所領を安堵された。慶長15年(1610年)に家中で騒動が発生する。筆頭家老の渡辺金内と若手実力者の伴三左衛門との間で、藩政の主導権をめぐって対立したのである。この裏にはかつて数正に煮え湯を飲まされた家康がいたらしい。家康は、あわよくば家中騒動を理由に松本藩を取り潰す気だったのであろう。しかし、康長の縁戚であった大久保長安(長安の長男の妻が康長の娘)がこれを助けた。長安はかつて康長の後見人でもあった宿老・秋山治助をこの内紛に介入させて、三左衛門を石川氏の中枢から駆逐することで、無難に騒動を終結に導いたのである。慶長18年(1613年)4月、大久保長安が亡くなり、長安の死後に起こった大久保長安事件において、康長兄弟は長安と縁戚であるという理由(取り潰しの表向きの理由は領地隠匿罪)から改易されてしまった。他に改易の理由として分限をわきまえずに城普請を行なったことが付け加えられている(『信府統記』)。他にも家康の意趣返し、福島正則と同じ外様大名外しともされる。
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