石川家の時代とは? わかりやすく解説

石川家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:24 UTC 版)

松本藩」の記事における「石川家の時代」の解説

天正18年1590年)の小田原征伐後北条氏滅亡し秀吉命令家康関東移封されると、秀政も家康に従って関東移り下総古河藩3万石藩主となった松本藩藩祖は、徳川家康仕えた三河旗頭」の一人石川数正である。数正は家康今川義元人質だった頃から仕えていた最古参家臣で、永禄5年1562年)の織田信長家康との同盟締結大きな功を挙げた人物である。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年1585年11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し当時家康宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。 秀吉は数正を家臣として迎え和泉に8万石与えた天正18年1590年)、家康関東加増移封されると、その後受けて信濃松本10万石に加増移封された。数正が文禄2年1593年)に死去した後、その遺領嫡男石川康長が8万石石川氏家督同時に継いでいる)、次男石川康勝1万5000石、3男の石川康次5000石とそれぞれ分割して継いだ。数正・康長父子松本城近世城郭改め城下町の建設務めた。だが数正没後、跡を継いだ康長はその築城のために過酷な賦役民衆課した伝わっている。 康長兄弟は慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍与したため、戦後家康から所領安堵された。慶長15年1610年)に家中騒動発生する筆頭家老渡辺金内若手実力者の伴三左衛門との間で、藩政主導権めぐって対立したのである。この裏にはかつて数正に煮え湯飲まされ家康がいたらしい家康は、あわよくば家中騒動理由松本藩取り潰す気だったのであろう。しかし、康長の縁戚であった大久保長安長安長男の妻が康長の娘)がこれを助けた長安はかつて康長の後見人でもあった宿老秋山治助をこの内紛に介入させて、三左衛門石川氏中枢から駆逐することで、無難に騒動終結導いたのである慶長18年1613年4月大久保長安亡くなり長安死後起こった大久保長安事件において、康長兄弟は長安縁戚であるという理由取り潰し表向き理由領地隠匿罪)から改易されてしまった。他に改易の理由として分限わきまえずに城普請行なったことが付け加えられている(『信府統記』)。他にも家康意趣返し福島正則と同じ外様大名外しともされる

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